「日本ノ詩」の到達点 川口晴美『Tiger is here』
今年の夏、日本の詩の流れを明治初から戦後まで辿ってみて気付いたのは、近代詩が浪漫主義的な抒情を引き受ける一方で、小説が自然主義的な社会性や思想性を受け持つと云う一種の分業制だった。詩は<私ごと>に専念し、<公のこと>は小説に任すと云う割切りが、プロレタリアート詩や戦争賛美詩、その反動としての戦後の荒地派の詩といった例外はあるものの、今日にいたるまで凡そ認められる。『新体詩抄』で「日本ノ詩ハ日本ノ詩ナルベシ、漢詩ナルベカラズ」と息巻いた辺りから既にして、漢詩の特性のひとつである時代の状況に「悲憤慷慨」するという批評性を敬遠する傾向があったのかもしれないが、では抒情を本懐とする「日本ノ詩」が、英国ロマン主義やフランス象徴主義の物真似ではなく、かと云って和歌的詠嘆に回帰するのでもない独自性を、いかに獲得するかという課題に我々は未だ答え得ていない。中原中也が「短歌や俳句がちゃんとした娘ならば、詩の多くは云ってみればおひきずり(傍点)であった」と嘆いた状況は、多かれ少なかれ今にも当て嵌まるのではないか。
川口晴美の詩集『Tiger is here』は、「日本ノ詩」の抱えるこの本質的な課題に対して、我々が百年以上かかって辿り着いたひとつの回答である。
その語り口は漢文脈ではなく大和言葉、『枕草子』以来の「女文字」の、繊細な抒情性を基調としている。そしてその自然な所作として、作者の私的な回想や来歴、家族の死や病などが語られる。それだけでも十分に面白く読むことができるし、大方の詩集よりも「よく書けている」と云えるだろう。だが回想の中心に故郷の福井県小浜市が置かれ、原発銀座が影落とす時、作品内に巨視的な批評性が導入される。地元の高校を出て上京し、私鉄沿線の木造モルタル二階建てアパートでひとり暮らしをしながら就職し、オフィスで為替相場のグラフを作ったりする姿が、個を越えてひとつの時代の肖像となる。それは私達自身が今この瞬間も生きている世界の俯瞰図だ。
だがこの詩集を、単なる「洗練」を越えて「画期的達成」たらしめているのは、その中心に仕掛けられたアニメ『Tiger & Bunny』 のイメージだ。深夜放送のアニメ独特の、徹底的に表層的で、奥行や深みのない誇張された虚構性が、公と私、叙事と抒情、散文と詩の交わりそのものを裏返し、反転してみせる。その瞬間、作品は異様なリアリティを獲得するのだ。そのリアリティを的確に表現する批評的言語が容易に見当たらないのは、『Tiger & Bunny』という装置そのものが批評性を帯びているからか。
実を言えばアニメを通じて、公と私の交錯を描くという手法は、私自身『ゴールデンアワー』という詩集で試しているのだ。だが私の作品が回顧的な情緒に浸っているのに対して、『Tiger is here』は未来に開かれている。架空の都市の夜風に吹かれて乾いている。やられたなあ。悔しいが、「日本ノ詩」の進化の現場に居合わせることのできた歓びがそれに勝る。川口晴美の「虎」を我が胸中に放して、しばしその咆哮に耳を澄まそう。
初出:現代詩手帖 2015年12月
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