見出し画像

ミュンヘン映画祭の拾い物:リリカルでエピカルな映像の詩「コレスポンダンス」

先週からミュンヘン映画祭が開かれている。かつての栄光はすたれ、いまではベルリンやヴェニスの後塵を拝する感もあるが、今年はソフィア・コッポラと、Breaking Badで名声を確立したブライアン・クランストンを目玉のゲストに招いて、連日市内各地の映画館での上映が売り切れ続出の盛況を博している。

僕も大体毎日、ときには一日二本観ているが、とにかく世界中の映画が(ドイツ映画も含めて)英語の字幕付きで観れるのがありがたい。三本に一本くらいは監督かプロデューサーが上映後のスクリーンの前に立って、製作の裏話や質疑応答をしてくれるのも楽しみだ。

これまで七本ほど観たなかで特に印象深かったのが、ポルトガルのRita Azevedo Gomesという人が監督した Correspondences という作品だ。二十世紀のポルトガルを代表するふたりの詩人、Jorge de Sena と Sophie de Mello Breynerの間で何年にもわたって交わされた往復書簡を映画化したものだ。

というと地味な文芸映画を想像されるかもしれないが、映像も構成も実験精神に満ちていて、ふたりの詩人の言葉と緊迫した均衡をとっている。単なる詩人の言葉の映像化ではなく、詩人の言葉を素材として十分に使いこなし、映画として自立しているという印象なのだ。フィクションでも、ノンフィクションでもなく、その両方の要素を取り入れ、その上で映画の製作過程そのものも描いてみせるというメタフィクション仕立てでもある。

ふたりの詩人のうち Jorge (これはスペイン語風のホルヘではなく、ポルトガル語だとフランス語のジョルジュに近い発音だった)は、アントニオ・サラザールの独裁体制を逃れてブラジルへ渡る。Sophiaとの文通は、その直後のJorgeが夢と希望に満ちた口調で新世界の様子を伝えるところから始まる。だがそれは次第に苦い幻滅に変わってゆく。後には米国に渡るが、そこでもむしろ絶望は募るばかりだ。「米国では、世界中からやってきた移民たちの異なる価値観の、最も単純なる最大公約数だけによって物事が動いてゆく。なんという皮肉だろう。そういう世界を最も嫌い、自らのうちに深い中心を持つことを求めて止まなかった自分が、まさにその移民のひとりとなってしまったとは」という彼の嘆きは、現在の米国のあり方にも向けられているかのようだ。

一方ポルトガルに残ったSophiaにとっても、絶望は深まるばかりである。僕は知らなかったが、サラザールから後継の首相へと受け継がれたポルトガルの独裁政権はエスタド・ノヴォ体制と呼ばれ、ヨーロッパで最長の独裁体制だったそうだ。「私たちポルトガル人は、勇ましく大航海に出かけて世界を征服したけれど、自分自身と向き合う力を失ってしまった」。こちらは今の日本の社会を彷彿とさせる嘆きではあるまいか。

それだけに、ふたりは海を隔てて近況と互いの詩を送り交わしながら、この世のどこにも属さない、詩という故郷というヴィジョンを共有するようになる。このあたり、僕には身に染みるものがあるのだ。

「詩は真空(Void)を求める力と、交わり(Communion)を求める力の、鬩ぎあいのうちに存在する。詩によって真空のなかで絶対的な孤独へたどり着こうとする欲望と、詩によって他者と出会い束の間のコミュニオンを分かち合おうとする欲望の、その配合比率によって、ひとつの詩作品の性格は決定づけられるのだ」どちらの詩人の言葉だったが判然としないのだが、忘れられない一節である。

http://www.cineuropa.org/nw.aspx?t=newsdetail&l=en&did=313817



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?