佐野洋子2

佐野洋子『親愛なるミスタ崔』:その2

『親愛なるミスタ崔』からとりわけ印象に残った箇所をいくつか。

まずは最初から二つ目に出てくる1967.5.15の手紙。書いているのは佐野さんで、あて先はもちろんミスタ崔だ。

「無教養の阿呆の私が、ショックで口もきけなかったのは、あなたが酔っ払って『日本への憎しみ』をはき出した時でした。
 私は『過去にこだわらずアジアの青年よ前に進もう』等、口がさけても言えませんでした。『一度しかない幼年時代』とあなたが言っただけで、私は心臓がガタガタいってしまいます。あなたが日本語の作文書いたこと思うと、そして現在あなたが、日本の本屋から本を取り寄せる皮肉に何と言っていいかわかりません。
 本当に私たちは何も知りません。私たちよりもっと若い世代はもっと何も知らないでしょう」

二十代後半でベルリンに留学していた佐野さんが、初めてミスタ崔に会ったときのことだ。それから約半世紀後、この本の終わりに添えられた「回想の佐野洋子」(日本語訳はもちろん吉川凪さんだ)という文章のなかで、当の崔氏はそのときのことをこう振り返っている。ベルリンで開かれた年越しパーティで、崔氏はふたりの日本人女性と知り合いになる。ひとりはK、もうひとりがYこと佐野洋子だ。

「パーティが終わり、帰り道でKは、私が二人をエスコートしてくれたお礼に、自分の家でご馳走すると言い出しました。愛する人と何ヶ月も離れて暮らしている二人の女性に捕まってしまったら、新年をまともな体で迎えられるかどうかわからない、などと冗談を言いつつ、私はその誘惑を受け入れました。
 それまで他人に見られることがほとんどなかった二人の女性の部屋は、整理整頓などとは無縁のカオスでした。そのカオスが、私には、毒気を含んだセックスアピールのように感じられました。私は何かを拒絶しなければ、という自衛本能を衝動的に感じたのかもしれません。相手が<日本の>女性であり、しかも二人とも恋人や夫のいる女性だったからでしょうか。異常な毒気に包まれて強いブランデーを飲みながら、私は夜が明けるまで毒舌をふるっていたようです。
 日本、日本人、日帝時代を罵倒し、そして特に『過去を水に流して韓日間に若い世代同士の新しい未来を』などというKの<建設的な>言葉を罵倒しました。酒に酔ったのか、自分の毒舌に酔ったのか、しばらく一人で喋りまくっていて、ふとYを見ると、彼女はマラリアにかかったように、ぶるぶる震えていました」

純情で繊細な若い佐野さんの姿が、半世紀の歳月を跨いで浮かび上がるようではないか。だが彼女の魅力の本領は、最初に引用した部分の前後に出てくるこんなくだりだ。

「あなたのセックスをたて糸に、それに四十年?近いあなたの中の『朝鮮』と『韓国』と憎らしい『日本』とそれからあなたを失望させた『ヨーロッパ』を横糸に、どうぞ『猥説』極まりない『残酷』極まりない、地獄絵のように美しくて、おそろしい文明批評を書きませんか。
(最初の引用部分がここにはいる)
 それをあなたは清潔で格調高い名文等で書いてはいけません。猥せつでいやらしいあなたのセックスで書きなさい。男のセックスには哀しみとユーモアと詩があるはずです。
 そしてあなたのセックスにはとても変な戦争と文明と退廃の匂いがして哀しいのです」

ぶるぶる震えている佐野さんは可愛いけれど、その衝撃から立ち直るやいなやこんな言葉の銃弾を撃ち込んでくる佐野さんには、惚れ惚れしてしまう。そしてなぜか涙が溢れてくるのだ。

ほかにも

「私男女同権をとなえた人、何か間違っていたんじゃないかと思う。私は人間である人間であると人間の権利を主張する女を、全く関係ない人のことのような気がしてぼんやりながめてしまう。(略)
 女は女のほうがいいんだぞ。
 間違っても人間なんかになるんじゃないぞ。
 そして女は常に、愛に向かって流れいくんだと思います」

というところとか、

「十二才で死んだ兄は、死んだがゆえに、私の中でますます強く兄であり続けてしまいました。それが私の愛のつまずきのスタートだったと思います。
 それでも私は生き続けねばなりませんでした。
 私は結婚に失敗しました。
 多分結婚が兄の亡霊から私を解き放つチャンスだったのだろうと思いますが、私はそれに失敗しました。
 結婚の間も、私は悲しいことがあると、幼い兄のふところに逃げて泣きました。
 そしてミスタ崔、私はあなたに会いました。ミスタ崔、どうか迷惑に思わないで下さい。どうしたわけか、あなただけが兄を越える人でした」

まずいまずい。全編引き写してしまいそうだ。このあたりでグッと我慢するとしよう。そしてどうしたら、自分が佐野洋子の自由と勇気を手に入れられるか考えよう。

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