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小池昌代の〈詩と小説〉:『赤牛と質量』を読む その2

詩集の二番目に置かれている「ジュリオ・ホセ・サネトモ」という作品には、見覚えがあった。以前雑誌で読んだ時の、冒頭の印象が強烈だったからだ。

妻とはセックスしない
妻だけでなく
もうだれとも
韓国で出会ったスペイン人
ジュリオ・ホセ・マルティネス・ピエオラは言った

韓国で開かれていた詩祭の席で飛び出した発言らしい。「一座は湧いた」「韓国ではまだ/みんな妻と性交をしている/日本ではーー」などと言っているうちに、例によって話はポーンと飛んで、ジュリオ・ホセというこの男が詩に目覚めた朝のことが語られる。

ホセは
言葉が
現実をのりこえ
新しく生き始めたことに興奮していた

そのことと、彼が妻とも誰ともセックスしなくなったことには、どんな関係があるのだろう。と思っていると、いきなり和歌が現れる。

世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも 

源実朝の歌だという。だから題名も「ジュリオ・ホセ・サネトモ」という訳だ。小池さんが詩祭のなかで行った実朝の和歌に関するレクチャーに異様な興味を示したというジュリオ・ホセと実朝が、この詩の中では合体し、「ホセ・実朝」となる。引用された歌の「かなしも」という一語がふたりと結びつける「綱手」の役を果たしている。

実朝の悲しみの理由は、まず彼が若くして甥に暗殺されたこと。そして定家に師事し、後鳥羽院に憧れて歌を詠んでいたのに、そのほとんどは22歳くらいまでに書かれていて、あとには作品が見当たらないということ。もっとも、

それ以降
彼は歌を捨てたのか
捨てられたのか

と哀切な問いを響かせたかと思ったら、

幕府 幕府 鎌倉幕府

と軽妙なお囃子のようなフレーズが挿入される。「和歌、ワカ、ワカモーレ」なんていうのも出てくる。したたかですなあ。

歌と日常的な話し言葉を融通無碍に行き来しながら、実朝の悲しみを、ジュリオ・ホセの上に重ねてゆく。彼が妻とも誰とも寝ない(とあえて他人に言ってみせる)ことと、彼が詩に取り憑かれていることは、やっぱり無関係ではないのだと腑に落ちる。

宇宙に放出され
散り散りに 切れてゆく
白濁する しろみ
ホセの断片

まるで女の代わりに宇宙そのものとセックスしているかのような男性詩人のイメージだ。だが次の瞬間、それを書いた女性詩人(つまり小池さんだ)の意識は、ホセの妻に移ってゆく。そしてまた実朝の妻、坊門信子にも。

傾向として、小池さんは男の作品のなかに、妻たちの存在を探りたがる。昨年12月に行ったトークの席でも、僕の小説を読みながら、「奥様のことがとても気になった」などと発言して、僕はさあ来たぞ、と思いながら、冷や汗を掻いたものだ。その小説のなかで、僕と思しき男は、周囲の女たちに気を取られてばかりいたからだ。

それでいて彼女自身の作品における夫の影は希薄だ。この詩集も例外ではない。ほかの男の妻を気にするくらいなら、もっと自分の夫についても書けばいいのに、と思いながら、もう一度最初からこの詩を読み返してみる。

するとホセと実朝のとなりに、詩を書く男の悲しみについて書く女を妻に持ってしまった、もうひとりの男の姿が浮かび上がってきて、味わいは一段と深まるのだった。


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