単調にぼたぼたと_小説_ブックカバー

『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』『小説』:読売新聞書評(2017年5月7日付)

読売の尾崎真理子さんが新詩集二冊の書評を書いてくださった。それぞれにかなりの分量の詩集を二冊も読んで、その評を僅かな字数に圧縮するには凄まじいエネルギーが必要だ。あえてその労を引き受けてくださったことが、まずなによりも嬉しく、有り難い。

おまけにうち一冊の『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』(略して『単ぼた』)は政治的なプロテストソング集、もっとはっきり言えば現政権の政治運営に対する痛烈な批判がこめられている。書評のなかで尾崎さんは「そんな詩人の気概から、同時代の私たちは決して軽くない、生きる勇気を手渡される」と書いてくださったが、そんな詩集をあの読売新聞の紙面に取り上げた尾崎さんにこそ、気概と勇気を感じるのだ。

だが一番嬉しかったのはその内容だ。「ニッポン万歳」から引用されている「たとえそれば人類の普遍的な価値には無縁であっても、忘れるな/文明史上最も清潔な肛門(ウォシュレット)を実現した民族である誇りを!」は、自分でもかなり気に入っている一節なのだ。「七五調からも遠く離れているのに、懐かしい日本語の調べもふと紛れ込んでいる」のに気づいてもらったことも、作者冥利につきる思いだ。

実は尾崎さんと僕とは同い年なのだ。雑誌『新潮』の2017年1月号に尾崎さんが発表された画期的な谷川俊太郎論「情熱か受難か」のなかで、僕の『谷川俊太郎学 Shuntarology』を引きながら、敢えてその点に触れてあった。たしかに同時代を生きてきたもの同士の連帯を感じてしまう。

その後メールをやり取りして、僕が「尾崎さんの谷川論は、『国際谷川俊太郎学会』に論文として提出すべきだ」と言うと、「そんなものがあるのですか?」と真に受けてくださった。からかってごめんなさい。でもそれも同い年のよしみで大目に見てくださったようだ。「『世界中年会議』の詩人だってことを忘れていました」だって。

国際学会ではないとしても、いつか尾崎さんと谷川俊太郎について、できれば本人を前にしてとことん語り合ってみたい、というのが目下の僕の夢なのである。

http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_1849.html


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