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ファシズムの夏:その1 『ぼくの兄の場合』

7月末、日本へ一時帰国しようとしている直前、東京新聞から書評の依頼があった。担当記者はYさん、一年ほど前にも詩の寄稿を依頼してくださった方だ。ちょうどその頃同じ東京新聞の望月衣塑子記者が官房長官を相手に勇猛果敢な質問を浴びせ始めていたので、その記者会見の模様に材をとった詩を提出したが、今回の依頼はナチス・ドイツ絡みの自伝的な小説、『ぼくの兄の場合』(ウーヴェ・ティム著 松永美穂訳 白水社)の書評だった。

著者のウーヴェは1940年ハンブルグ生まれの作家で、現在はミュンヘンに住んでいるという。帯に彼の言葉「兄の短い人生は、わたし自身に対して多くの問を突きつける」が引用されている。その隣の惹句には「1942年、ナチ・ドイツの武装親衛隊に入隊し、翌年、19歳の若さで戦士した兄。弟である著者が、残された日記や手紙から兄の人生を再構成しつつ、「戦争の記憶」とは何かを問いかける意欲作」。

日本の実家に戻るとYさんから本が届いていた。滞在中、慌ただしい移動の合間を縫って読了する。帰りの飛行機のなかでもう一度線を引いたりメモを取ったりしながら読み返す。8月半ば、ミュンヘンに戻ってから書き上げたのが以下の書評である。

著者は一九四〇年生まれのドイツ人。十六歳年上の兄はナチスの武装親衛隊に志願するが、ウクライナの戦闘で両脚を切断され、野戦病院で死亡。弱冠十九歳だった。だが「勇敢」な兄の姿は、自らも軍人だった父の心の中で生き続け、理想化されてゆく。それに比べて弟ときたら、家業を拒み、アメリカ文化にかぶれて悉(ことごと)く父親と衝突する…。

「カール・ハインツが生きてさえいれば」そう嘆く父を見れば「兄の代わりにどの子を死なせたかったか、考えているのがわかった」。

著者は父の期待に応えるよりも「反論し、質問し、問い返す」ために「自分の言葉を見つけること」を選び、長じて物語を紡ぐ作家となる。

兄について書くことは、父について書くことでもあり、自分を新しく発見する試みである。だが彼がそれを実行できたのは、両親と姉がこの世を去ってからだった。手がかりは、兄が戦地に遺(のこ)した日記帖。「七五メートル先でイワンがタバコを吸っている。俺の機関銃のえじき」

一家族の肖像から時代と民族の実相が浮かび上がる。「勇敢さ」に取り憑(つ)かれた男たちと、彼らを信じ支え続けた女たち。「我々は何も知らなかった」を合言葉とする世代ぐるみの責任回避。屈辱的な価値観の破綻と、癒えぬ悲しみ。

彼らの「勇敢さ」とは、命令と服従の上に成り立った「暴力を振るう勇気」であり、「『ノー』と言う勇気は認められていなかった」と著者は断罪する。それでいてこう自問せずにはいられない。負傷する直前、「残酷な事柄について記録するのは意味がない」と書き残して日記を中断した兄は、そのことに気づいていたのだろうか? もしも自分が兄の立場にいたとしたら…?

その問いは現在の日本にも跳ね返って来る。私たちは「世の中と一体となる」圧力に抗(あらが)って、「一人の人間、特定の個人であろうとする」勇気を手に入れただろうか? 戦前の全体主義の亡霊が跋扈(ばっこ)するこの時代だからこそ、一人でも多くの方に本書を読んでほしい。

文中で引用されている日記の一節「七五メートル先でイワンがタバコを吸っている。俺の機関銃のえじき」の「イワン」とは、ロシア人に対する蔑称である。ウーヴェは本書の中で繰り返しこの一節に思いを巡らせる。

俺の機関銃のえじき(傍点)。ロシア人の兵士、ひょっとしたら兄と同じくらいの年齢かもしれない。たった今タバコに火をつけたばかりの若者ーー最初の一息を吸い込み、吐き出す前に、火のついたタバコの煙の味わいを楽しむ。彼は何を考えていたのだろう?まもなく来る交替の時間のこと?お茶やパン、恋人、母、父のこと?(略)何を考えていたのだろう、このロシア人、イワンはこの瞬間に?俺の機関銃のえじき(傍点)。

この本を読んで一番驚いたことは、戦前・戦中のドイツ社会に蔓延していた「命令と服従」の文化、そして軍隊だけでなく日常生活にも入り込んできた暴力の横行だった。学校や家庭での体罰ばかりか、道で遊んでいると見知らぬ大人にいきなり頭を殴られることもあったという。

戦後のドイツ社会についても発見があった。ウーヴェの上の世代には、彼自身の父親を始めとして、戦争犯罪を認めようとしない傾向が強く、それゆえに世代間の激しい対立が起きたという。この本の中で、それはウーヴェの服装や音楽の趣味(少年の彼はジーンズやポップスなどアメリカの風俗文化に憧れていた)をめぐっての親子喧嘩として描かれているが、社会全体としては1960年代後半の学生紛争の出発点ともなっているようだ。

「なんだ、日本と同じじゃないか」

僕の驚きを一言でいうならば、そういうことだった。ドイツは日本と違って、戦後自らの戦争行為と正面から向き合い、その責任を引き受けているという印象があった。二十数年この国で暮らしてきた者の実感として、それは政治パフォーマンスのレベルを超えて、市民の日常生活や学校教育、そして個人ひとりひとりの精神において引き継がれていると思えるのだ。それだけに、ウーヴェの描き出した「戦後」のドイツは意外だった。

だが僕が漠然と思っていた「戦争責任を引き受けたドイツ」とは、決して当たり前のものではなかったのではないか。むしろそれは、「社会的な集団の圧力に抗しつつ、『ノー』と言うこと」の大切さを訴えるウーヴェのような人たちの、たゆまぬ努力の上に成り立っている稀有な達成ではなかったか。そう考えを改めた。

実際、本書が2003年に刊行された際には「ドイツにおける記憶の文化とナチスについて社会的な議論を巻き起こした」らしい。いまだに本書のような言説に苛立ち、否定しようという勢力があるということだろう。考えてみれば驚くにはあたらない。昨年の選挙ではAfD (ドイツのための選択肢)という右翼政党が躍進したのだから。いや、なにもドイツに限った話ではなく、欧州各国で同様の現象が起こり、トランプのアメリカはいわずもがな、海の向こうの我が祖国にも通じているではないか。

ちなみに昨年の夏、僕が東京新聞に寄稿したのはこんな詩だった。

   漂流会見

登壇した彼は居並ぶ記者たちにではなく
左斜め上に向かって頭を垂れる
(これは祭儀であって対話ではない)
背後には朝まだきの水面が
垂直に波打ちながら垂れ下がっている
(彼は両手で演壇の端を掴んで揺られている)
事前に通知された質問なら
腹話術の人形さながらすらすら答えてみせるが
記者がなお言葉の網を持って追いすがると
彼の全身は忽ち言葉の鱗で覆われる
(左右対称に生える集音マイクの松の枝ぶり)
質問者は繰り返し名をなのるよう強要される
罰ゲームででもあるかのように
(無言でキーを打つ指先から湧き上がる潮騒)
若い男が鴎のように現れて紙片を差し出すが
会見はどこへも行かない ただ金バッジと青リボンの
背広の空が銀から紺へと移りゆくだけ
(顳顬の下で魂らしきものの尻尾が蠕動している)
「同趣旨のご質問はお控え下さい」の撫声とともに
真赤に海を染めて虐殺される自由のイルカたち
(画面をズームさせているのは誰なのだろう?)
下手にうなだれる旗の傍らで手話を操る女性が
ここにはいない知性に向かって
何か別のことを必死で語りかけている

ここに登場する「彼」とは言うまでもなく官房長官である。「質問者」は望月記者。この詩を書くためにふたりのやり取りをユーチューブで繰り返し研究したが、観ているうちに気分が悪くなってきた。官房長官の返答の、あまりの慇懃無礼ぶりばかりではない。それを容認し、望月記者を冷ややかに見捨てるかのような会場の空気そのものが不気味この上ないものに感じられたのだ。

紙面では詩の横に、こんな小分を書き添えた。

加計学園問題に関する内閣の記者会見はひどかった。言葉がまともに機能していない。それだけに女性記者の健闘が目立ったが、彼女は社会部の記者で、あの場では部外者の立場だったという。村社会は外に対して閉塞し、内部では言葉よりも権威や関係が物を言う。だが言葉はそこに風穴を開ける。自由の息吹を誘いこむ。いつまでも声を上げ続けなければならにない。記者も詩人もあなたも。

一年の時を隔てて、ドイツの作家と日本の新聞記者、権力的な集団に対して孤独な異議申し立てを発するふたつの声が響き合ったかのようだ。

(続く)

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