「何事もバランスが大事」が言っていること

 中庸は、大小などのどちらかに偏り過ぎず中立的であることを指す。単に50%をとるわけでもなく、適切な判断をすることである。現代の言葉でいうと「バランスをとる」だ。「何事もバランスが大事」とはよく聞くが、僕はそれらは特に何も言っておらず、あくまでも類似した感覚からなる集合なのではないかと思っている。

注:あくまでも個人の感覚としてお読み下さい。また、ご指摘もお待ちしております。

バランスとは

 中庸やバランスの取れた判断とは、要は各所の都合を鑑みた結果のその都度の最適な選択のことだ。さらに中庸の定義ではこれに加えて、それらの選択にある程度の一貫性や普遍性があることを求めているようだ(少し検索してみた情報)。なので、これは7つの習慣でいう「原則中心」と同じような高いレベルの方向付けだと言えると思う。
 しかし、(これは7つの習慣を読んだ時にも少し思ったが)その時その時での判断が最適かどうかを誰がどのように判断するのかを考えると、僕には中庸論には2つの解釈があるように思えている。

解釈1

 1つは、成功の後付けというか生存バイアスのようなものだ。「結果的に良かったからあの判断も良かったのだ」という論法ではないかということだ。この場合、「何事もバランスが大事」は「結果的に良かった選択であればそれでよかった」というトートロジーになる。
 「偏り過ぎない」を考える時に最終的に基準になるのは社会通念(および生命活動)だと僕は考えているので、ある判断をその中で(偏り過ぎずに)行うことは消去法としては実際に指針として有効でもあると思う。しかし、そうだとしても「社会通念上偏った選択はいい結果を招きにくい」とまでしか言っておらず、仮にこれが一貫性を持ったとしても「常識的な人であれ」止まりになるのではと思う。

解釈2

 2つ目の解釈は、判断を行う者自身が、実際に選択されなかった選択の結果をどのように想定するかによってその選択のバランスが決まるという考えだ。単純に言えば「ああなるよりは良いだろうからこの判断はよかったのだ」という論法だ。
 この方法では、バランスの取れた選択の内容をある程度主体的にコントロールできてしまう。しかし、本当にこの解釈を採用するならば、結果の想定を行うにも「バランスの取れた」想定を行う必要性が出てくる。それで、「バランス」を考える際の定義域を上書きする形での循環が行われていくことになる。
 この循環は、僕の感覚としてはn^xのような形で、ほとんどの場合発散するのではないかと思う。発散すること自体は選択することでもあるので悪いことではない。だが、そう考えると中庸な選択という概念が矛盾しているような気もする。
 主観的なバランスの行先を考えるのは諦めてこの循環を外から見ると、僕が考えた限りの結論としては、レトリックとしての「ポジティブに選択肢を俯瞰する方が満足度高い(ように見える)よね」論と、先の解釈1にも通ずる「出来る限り主観は排除した方がいいよね(社会通念は採用した方がいいよね)」論が考えられた。(ほかにも考えられる結論はあると思う。)

結論

 以上のように、「何事もバランスが大事だよね」は特に具体的な要件は持っておらず、あくまでも類似した感覚からなる集合なのではと思っている。
(類似した感覚を共有することはコミュニケーション上とても重要だと思うので、この言い回しが通ること自体には僕は否定的ではない。)
 それで、現状僕が見出せたのは、「ある程度社会通念を採用しつつポジティブに考えた方が満足度高いよね」である。


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