【思い付き】自我とは思考のクオリアなのでは?
(先行研究を調べて言っているわけではないので、業界では既に常識である可能性もあります。誤りなど教えていただけると喜びます。)
標題のようなことを思ったので書く。(思いついたのは結構前で、今書くに至ったのは単に最近書くことがないからだ)
根拠
自我というものがあるとしてそいつは何をしているのだ?という疑問が生じたのがそもそもの発端だった。僕は僕は自由意志は無いと思っているタイプなので、わざわざ主体性を持っている(ことになっている)ものがあるとする意味が分からなかった。
僕の実感としては、自我がやっていることは自分の生存のために必ずしも必要ではない。おそらく広義の自我の話になるが、自我が起きようとしていても眠ければ寝てしまうし、自我が寝ようとしていても眠くなければ寝れない。お腹が空いていても自我が面倒くさいと言えば何も食べない。そんなことを考えていくうちに、自我は自分に命令を出している側面と、自分の状態についての感想を述べているだけの側面があるなと思った。
そこで問題になったのが、感想というものが単に行動にフィードバックするだけのものではなく、実感を伴う感覚だということだ。なので、自我は単に自分の思考の状態をモニターするという機能をやっているわけではない。それで、言葉を厳密に扱えているかはわからないが、それはクオリアを生じているということだと思ったのだ。
まとめると、思考していること自体のメタ的なクオリアが自我であるという風に言い表すことが出来た。これは今の所僕の実感ととても整合している。
僕は一時期、世界に存在している自分以外の主体が本当に主体性をもって存在しているということを自分の世界から根拠づけることが出来ないというパラドックスに苦しめられていたが、今の僕は「我思う故に我あり」と言われても「それって我の感想ですよね?」と返すことが出来るようになったわけだ。
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