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Day6. 花のいのち

前回の投稿で、4月から家から駅までの道を歩いてる話をしたけど、
時間の変化を特に感じられるのが道端の花壇だったりするので、
時間に余裕のある帰り道によく観察している。

そこで毎回感動するのが、
「花も夜寝ている」ということ。

今日のトプ画見て!
とっても「生きてる」よね、可愛すぎ!

興奮してパシャパシャ撮って、しばらく立ち止まって見ていたら、
みんなスタスタ通り過ぎていくものだからもったいないな、と思ってしまった。
こんなに興味深くて美しいものがここにあるのに。

こうやって、
すべての植物が私たちのように呼吸をして、
食事をして、夜は眠って、子孫を残している、
と思うと、身の回りを囲む世界に畏怖の念を覚える。

昔の人々がすべてのものに”神”が宿っている、と考えたのも分かるな。
「生」という事象を説明するのに人智が及ばなさすぎる。

そこで昨日から考えてたのが

花の生死の境目ってなんだろう、って。

切り花も生きてる、よね。でも根っこないし。
人間でいう血液である水を人工的に供給してあげることで数週間生きるとしても、
人間でいう心臓部(根)がない状態は生きてるというのか?
てか今の定義でいうとドライフラワーとか完全に死んでいるんだがうんたらかんたら…
(恒例の哲学タイム)

しかも今回ん?ってなったのが、
切り花を剣山に盛る行為を「生け花」っていうじゃん。
え、「花を生かす」から「生け花」?
そしたら生け花にとっての切り花は何!?(カオス)

こんなことずっと考えてたから、
今日、日課の庭の雑草とりしてる時だって
「息の根を止めている…」と思って罪悪感。
でも芝を生かすためには仕方ないのだ…人間のエゴ……

で、結論として、答えは私の中で出たけどあえてここでは書かない。

なぜなら、ドライフラワーのくだりを考えてた時、
「どんな状態でも、咲いていたころの美しさは半永久的に残ってるな」
と思って。
その素晴らしさを生きてるか死んでるかジャッジすることはひどく無粋に思えたので。

最後に、私が花を愛でる理由は「儚くて強い」からだ。(いつからかのスローガン)

命短し、ひどく細っこい茎で踏ん張って地面に根を下ろして、
踏まれても雪に振られても、来年また花を咲かせようとする。
その健気さに心を打たれて、自分もこのように生きなければと背筋が伸びる。
(こう書くと気づく、私はやっぱり土に植わった花が好きだ)

人間も同じだね、愛しみ深し。

(おまけ)
週に何回か、駅前の花壇を整えてくれている、
スーツ姿の市役所のオジサンたち。

店の前の花壇のパンジーに毎朝お水あげてる、
アパマンショップの店員さん。
休憩時間に裏でタバコふかしてる姿も、
見てはいけないものを見た感じで好きです。

その光景が愛しすぎて、朝から元気もらってます。
直接伝えられないのでこの場でお礼、ありがとうございます。

6日目、おわり。

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