悪役は悪役のままで

「いただきます」「ごちそうさま」

日本社会に文化・常識の域で染み付いている文言ではないでしょうか。
日常的に使っている方、外で食事する時だけ使っている方、全く使わない方、様々おられるかと思いますが、知らない方は珍しいかと思います。

ちなみに僕は割と使いますね。
一人で食事をする際も大体口に出しているので、使用頻度はかなり高い方でしょう。

ではこの挨拶じみた文句、一体誰に向けた言葉なのでしょうか。
「料理を作ってくれた人」に対して述べている方は僕と同じです。

問題は「料理になってくれた動植物」に対して述べている方。「命をくれてありがとう」的な発想。
僕はこれが許せません。

立場を置き換えてみれば簡単にわかること。
全てを奪われた後で「ありがとう」なんて言われても、余計に怒りと憎しみが増幅するだけです。
死んだ命をわざわざ呼び出して、些細な自己弁護のために今一度魂を踏みにじる行為、傲慢・冒涜の極みだと思います。

上記に代表される精神性は日常で頻繁に発露しています。

命とまではいかずとも、相手の不利益によって自分が利益を得る場面というのは大量に存在します。勿論逆のケースも。
望むか望まざるかは関係ありません。もしそのような経験がないと思うなら、それは認識が不足しているだけです。
特に勝負事に顕著な事例なので、以下では便宜上「勝者」「敗者」と区分しますが、別に勝負事に限った話ではありません。

そのようなケースで勝者側に立った時、謝ったり、慰めたり、その他余計な言動を取る人がかなり多いのです。
勝利に酔って踏ん反り返っていた方がまだマシです。
彼らは勝利したが故に居心地の悪さに負け、善の仮面を被って「自分のために」犠牲者にアプローチをかけます。

その行為は敗者の最後の居場所を奪います。
拒否すれば悪者にされ、受け入れれば"全て"を許したのと同じことになります。
敗北してなお屈辱の二択を提示される身になってよく考えるべきです。

勝者は超然とせねばなりません。

それが敗者に対する礼儀というものです。
相手が望んでやってくれた行為ならば「ありがとう」、埋め合わせができる行為ならば「ごめんなさい」と共に責任を取る。
そして、どちらでもないなら一切勝敗に触れるべきではありません。終わった勝負には、将棋における感想戦のような立場で臨むべきです。

嫌な言い方になりますが、現実において実際的に優位を獲得したならば、既に道徳的には劣位なのです。

これまで幸運にも「勝者」となる事が多い人生であったために、敢えて強く申し上げます。
絶対に何もするべきではありません。
これは勝者が必ず持つべき矜持であり、矜恃です。

悪役は悪役のままでいるのが、真の優しさというものです。
幸運な人々は、既に自分の実像そのものが誰かを踏みにじっていると自覚した上で、敢えてその幸運に没入すべきです。

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