見出し画像

体験が養う自己肯定感

今回は、私たちが大事にしている「体験」ということについて考えてみたいと思います。以下は、当活動の前身である青少年体験活動奨励制度委員会の委員長を務めていた松田が2014年に著した文章からの抜粋です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分に自信がないということ。自分に対する基本的な肯定的感情が持てないということ。

このような状態にある子どもたちの生きづらさには、想像を絶するものがある。周りからみたときには、「そんなに苦しまなくても、自信を持って生きればいいのに…」と見えるのだけれども、当人はどうにもできない感情に苛まれているものである。そのようなストレスは、それが自分に向かっても他者に向かっても、結局は人を傷つける方向へと働いてしまう場合が多い。そして、さらに厳しいのは、こういう状態や感情を、周りの大人が結局のところ、無意図的につくり出している場合も多々あるという点である。

まずは、現在の自分でいいんだ、という、基本的な肯定的感情ははたしてどのように育まれるのか。もちろん、答えは一つではないけれども、ここでは「体験」という言葉をキーに、少し考えてみることにしてみたい。

例えば、現在の学校教育行政においては、「体験」というものの教育的な意義が多いに強調されている。現行の学習指導要領においても、道徳教育との関係の中で、「集団宿泊活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない」と述べられていたり、学校での体験活動を推進するため文部科学省によって作られた「体験活動事例集」でも、「体験活動は、豊かな人間性、自ら学び、自ら考える力などの生きる力の基盤、子どもの成長の糧としての役割が期待されている」と述べられたりするように、力点のおかれる目標のひとつとなっている。「生きる力を育む」際の礎として、体験活動は教育施策において重視されている様子がうかがえるところである。

これは、自然や社会の現実に触れる体験が、子どもの学習や社会化において、いわば成長の礎となるものであるにも関わらず、近年の子どもたちにはこうした体験の不足が危惧されるという問題意識から導かれている面も大きい。また、ここでの「体験」とは、「間接体験」ではなく「直接体験」が強調され、長期宿泊体験が事例としてよくとりあげられたりするなど、「実際に身体で感じる」あるいは「体当たりしてつかみ取る実感」のようなものがイメージされている。「知識に対する行動」であったり「考えることに対して実践すること」であったりなど、「頭」の中であれやこれやと思うのではなく、「身体(肉体)」で実際に行動するものという、よく知られた二項対立図式が、体験を意義づける際にはその前提になっていることも指摘できるところであろう。

ところで、このような「体験」という言葉に対して、「経験」という言葉もしばしば類した用語としてよく登場する。「経験が少ない」「経験が大切」などのように、実践したり行動したりするという意味では、体験とほぼ同じ意味を担っている言葉がこの「経験」である。しかし言葉として異なっている以上、もちろんそこには違いもある。「体験」という言葉の意味をさらに深く掘り下げるためにも、逆にここでは、「体験」と「経験」という言葉(概念)の違いについて、少し追っかけてみることにしてみよう。

普段はそれほど使い分けることがない 2 つの言葉であるが、「初体験」という言葉使いはあるけれども、「初経験」という言葉使いはない、といったように、やはりこの 2 つの言葉は語用が異なっている。まず、経験という言葉を特徴づけるものは、「こんなことだったなー」というように、後で振り返るという「反省的な意識」をともなっていることにある。例えば、お風呂に入っているまさにその瞬間はまだ「経験」とはいえないのだが、お風呂から出た後で「今日のお風呂はいいお風呂だった」というように、意識によって後で振り返えられたときに、それははじめて「お風呂に入った」という経験として蓄積されるものになる。

それに対して、振り返りのない、まさにその瞬間、あるいはその時間の流れのまっただ中にいるときのことを私たちは「体験」と呼んでいる。体験はこの点からすると、感じるしかしようのない、あるいはそこで広がっている出来事に参加しているとしか言いようのない状態そのものを示している。このような「体験」を、「反省的な意識」によって振り返り整理したときに、それははじめて「経験」になるという関係である。そのように整理すると、体験には「初」という言葉を加えて「初体験」という言葉使いが成立するのに対して、経験には「初」という言葉を加える言葉使いが成立しないこともその理由がはっきりするところであろう。振り返る意識が前提となっているのが「経験」という言葉なのだから、それは必ず過去に「体験」されたことであり、だからこそそれが「初」になることはありえないのである。

このように考えてみると、「体験」という言葉に含まれる「実行すること」といったニュアンスの中身は、「身体(肉体)を動かす」とか「汗をかく」といった行動すること自体を価値づけていると同時に、既知の情報等からいわば自分なりの「めがね」を通して出来事に接するというのではなく、バイアスをかけないで、とにかくあるがままの事実に曝されることにも意義をみているということができると思われる。つまり、「そのとき」「その瞬間」のに夢中になり、我を忘れることが、他者や新しい出来事との出会いや触れ合いを生み出す面をも期待しているのではないかということである。

「我」という、ある意味「壁」をつくって生活する日常の時間に対して、情報や知識に基づいて「我」の立ち位置を確認しつつ接するというのではなく、その場に巻き込まれいわば「無防備」に関わり合い、自分というものがその場に溶解するような「壁」のない時間を持つことが、子どもの内面のもっとも奥底に宿るエネルギーを活性化させ、また、これまで知らなかった新たな「自分」を発見する事にも繋がり、そのような一連のプロセスが自分に対する新陳代謝を起こすという、成長に対する原動力を生み出すということなのではなかろうか。

また、このような「我」を忘れるような「体験」に直面したときに、子どもに限らず私たちは、往々にして「面白い」という感情に包まれることが多い。そもそもこの「面白い」という言葉は、「面」が「白い」、つまり、パッと光が当たり視界が開ける状態を原義に持つ言葉である。「我」を忘れ、なにかに夢中になるときに感じるこの「面白い」という感覚は、もちろん、世界に対する肯定的な感覚を同時に引き連れてくる。「ワクワク・ドキドキ」という生命感のことである。さらには、こうした感覚が、自分というものを充満させ、自分に対する肯定感や自分に対する自信を支えるものにもなっていく。自信に関わっての「体験」の有用性は、この意味で、様々な知識や情報を得ることができるという点にあるだけでなく、「我」という「壁」がなくなることによって他者や世界と溶解し、最も根底的な「つながり」や「安心感」を得ながらも、溢れる生命感の中で自分が新たに「生成」されていく、この自分のあり方が体験によってもたらされる点が重要なのではなかろうか。

(松田恵示、青少年の体験活動奨励制度開発の試み : 先行するイギリスのチャレンジアワード制度と体験活動による青少年の自信回復、児童心理 68 巻 1 号、PP. 94-99、2014、掲載より抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いかがでしょうか。体験と経験の違い、意味ある体験が自己肯定感につながっていくということをご理解いただけましたでしょうか。多くの人がこのような体験を重ねていくことを、私たちはサポートしていきたいと思っています。

(フジムー)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?