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バルバロイあるいはバーバリアン

バルバロイとは何でしょうか?

「バルバロイ」は主に古代ローマや古代ギリシャで、それらの文明圏に属さない外国人や異民族を指して使われた言葉です。この語は元々は単に「非ギリシャ語を話す人々」を指していましたが、時が経つにつれて「文化的に劣る」といったネガティブなニュアンスを持つようになりました。ギリシャやローマは自らを文明の中心と考え、その外側にいる人々を「バルバロス(barbaros)」と見なしました。

このような考え方は、西洋中心的な歴史観や偏見に影響を与える場合もあり、西洋以外の文化が「未開」または「劣っている」とみなされる原因ともなりました。ただし、「バルバロイ」や「バルバロス」が常に侮蔑的な意味で使われていたわけではありません。文脈によっては単に「外国人」や「異文化の人々」という中立的な意味合いで使われることもありました。

この語は現代でも「バーバリアン」という形で英語などに残っており、今日でも「未開な人々」や「粗野な人々」を指して使われることがあります。

ローマ帝国としては、当時のフランスもドイツもイギリスも野蛮な地域だったのでしょうか?

古代ローマの視点から見ると、現在のフランス、ドイツ、イギリスに当たる地域はローマ帝国によって一定程度「文明化」される前は、多くの部族が住む「野蛮な」地域とみなされていました。ただし、この「野蛮な」という表現はローマ帝国の文化的・政治的なフレームワークに基づいています。

  • フランスに当たる地域は、ガリアとして知られ、多数のケルト系部族が住んでいました。ガリアは最終的には58-50年BCEにかけてガイウス・ユリウス・カエサルによって征服されました。

  • ドイツに相当する地域は、主にゲルマン部族の居住地であり、ローマ帝国はこれらの部族としばしば接触・対立しました。ローマはテウトブルクの森での大敗(9年CE)など、ゲルマン部族に対する完全な支配を確立することはありませんでした。

  • イギリス(ブリタニア)もまた多くのケルト系部族が住む地域でした。43年CEにローマ帝国によって征服が始まり、一定程度ローマ化が進められました。

これらの地域の人々がローマに征服されると、ローマ式の行政制度、法律、言語(ラテン語)、建築、宗教などが導入され、一定の「文明化」が進められました。ただし、「文明化」という用語自体が文化的視点に依存するものであることに注意が必要です。

このような背景から、ローマ帝国の人々がこれらの地域やその住人を「バルバロイ」または「野蛮人」と見なしていた可能性は高いですが、それはローマの独自の文化的・帝国的な視点に基づいたものであり、当該地域の人々が自分たちの文化や社会に誇りを持っていたこと、また独自の成熟した社会制度や文化を有していた可能性とは矛盾しない点に注意が必要です。

ガリア戦記は、誰の執筆ですか?

『ガリア戦記』("Commentarii de Bello Gallico")は、古代ローマの政治家・軍人であるガイウス・ユリウス・カエサル(Julius Caesar)によって執筆されました。この著作は主に58年から50年BCEにかけてのガリア(現在のフランスとその周辺地域)でのローマによる征服戦争について述べています。

『ガリア戦記』は、その詳細な記述と高い文学的品質により、古代史研究の重要な一次資料であり、ラテン語の優れた散文作品ともされています。カエサルはこの著作を通じて、自らの軍事的・政治的な業績を強調し、ローマ市民に対して自分の行動が正当であると訴えました。このため、『ガリア戦記』はカエサル自身の宣伝材料としても機能しています。

本作はまた、ガリア人やゲルマン人、ブリタンニア人(現在のイギリス人)についての古代ローマの観点を知る上でも重要な資料ですが、当然ながらカエサルの主観や目的が反映されている点には注意が必要です。

ローマ帝国とバイキングに接触はありましたか?

ローマ帝国とバイキング(ヴァイキング)は、時代的にほとんどまたは全く接触していないと考えられています。ローマ帝国が最も影響力を持っていたのは紀元前1世紀から5世紀にかけてであり、西ローマ帝国が崩壊したのは476年です。一方で、バイキングの活動が特に目立つようになるのは8世紀から11世紀にかけてであり、この時点でローマ帝国はすでに存在していませんでした。

バイキングが活動していた時代は、西ローマ帝国が崩壊した後の「中世」に相当します。この時代はローマ帝国の後継国家や新興のゲルマン諸王国、さらにはビザンティン帝国(東ローマ帝国)などがヨーロッパで権力を持っていました。

バイキングは北欧から出発し、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、さらには北アメリカに至るまで遠征を行いましたが、これらの地域は既にローマ帝国の影響が薄れていたか、もともとローマの影響下になかった場所でした。

ただし、バイキングが活動していた時代には、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)が存在していました。ビザンティン帝国とバイキングはいくつかのケースで接触しており、ビザンティン帝国の「ヴァリャーグ親衛隊」には北欧出身の戦士も多く参加していました。

総じて、ローマ帝国自体とバイキングが直接的な接触を持ったわけではありませんが、ローマ帝国が崩壊した後のヨーロッパにおいて、その文化的・政治的遺産は多くの地域で影響を持ち続けていました。

紀元後において、最大の版図を得た国家や集団はどこだったのでしょう?

紀元後において、最大の版図を持った国家としてよく引用されるのは「モンゴル帝国」です。モンゴル帝国は、13世紀に成立し、その領土は東アジアから中央アジア、中東、さらには東ヨーロッパにまで広がりました。最大版図では、その面積は約24 million km²(約2400万平方キロメートル)にも及びます。

この帝国は、チンギス・ハーン(Genghis Khan)によって建国され、彼の後継者たちによって拡大されました。モンゴル帝国の軍事的成功は、高度に組織された軍事力と戦術、さらには相手の技術や知識を取り入れる柔軟性に起因しています。

モンゴル帝国が崩壊した後も、その版図はいくつかの独立した王朝や領域に分かれました。これには、元(中国)、イルハン朝(ペルシア)、ジョチ・ウルス(ゴールデン・ホード、ロシア・中央アジア)、チャガタイ・ハン国(中央アジア)などがあります。

モンゴル帝国以外にも、大きな版図を持った国家や帝国はいくつか存在します。たとえば、ローマ帝国、アラブ帝国、オスマン帝国、そして近年ではイギリス帝国も世界各地に広大な領土を持っていました。しかし、面積においてはモンゴル帝国が最も広かったとされています。

モンゴル帝国が、その支配を拡大させたモチベーションは何だったのですか?

モンゴル帝国が支配を拡大させたモチベーションは、多様で多角的な要素に起因しています。以下は主な要因です:

  1. 資源と富の獲得: モンゴル高原は資源に乏しいため、富と資源を求めて侵略が行われました。繁栄した都市や地域を征服することで、モンゴル帝国は貴金属、香辛料、布地などの貴重な物資を獲得しました。

  2. 軍事的安全: 周囲の脅威を排除するため、また、安全な貿易路を確保するためにも領土拡大が行われました。

  3. 名誉と権力の欲望: チンギス・ハーンやその後継者たちは、個人的な名誉や家族、一族の名誉を高めるために征服を行いました。成功した征服は、指導者の名声を高め、更なる従属者や同盟者を呼び寄せました。

  4. 統一と秩序の確立: チンギス・ハーンは当初、モンゴル高原の多くの部族を統一することに成功しました。このような統一によって得られる秩序と安定性も、更なる領土拡大のモチベーションとなりました。

  5. 報復や制裁: 一部の遠征は、先行する紛争や侮辱に対する報復、または制裁として行われました。例えば、西方への遠征の一つは、シャー・アラーウッディーン(Khwarazm Shah)がモンゴルの商隊を攻撃したことへの報復で始まりました。

  6. 文化的・宗教的要素: モンゴル帝国自体が特定の宗教的使命に基づいて行動していたわけではありませんが、征服された地域ではしばしば仏教やイスラム教、キリスト教といった宗教が広まりました。ただし、モンゴル帝国は比較的宗教的に寛容であり、多くの異なる宗教が共存していました。

以上のように、モンゴル帝国が展開した征服活動には、複数のモチベーションが組み合わさっていました。これらは時と場合、そして指導者によって変わることがあり、一概に単一の目的で行われていたわけではありません。

モンゴル帝国自体の宗教は何でしょうか?

モンゴル帝国の初期には、主にシャーマニズムと呼ばれる宗教的信仰体系が広まっていました。シャーマニズムは、自然や霊的な力に対する敬意を基盤とし、シャーマン(霊媒師)が神聖な儀式や治療、預言などを行う宗教です。チンギス・ハーン自身も、このようなシャーマニスティックな信仰背景を持っていたとされます。

しかし、モンゴル帝国は非常に多様な文化や宗教を内包する帝国であり、征服地や同盟国から多くの宗教が導入されました。これにはイスラム教、仏教、キリスト教(特に東方正教)などが含まれます。

例えば、モンゴル帝国の一部となったペルシア地域(イラン)ではイスラム教が主要な宗教であり、中央アジアやインド方面では仏教が影響力を持っていました。また、モンゴル帝国とビザンティン帝国やヨーロッパ諸国との接触によって、キリスト教も一定の影響を持ちました。

後の時代、特にモンゴル帝国が分裂してできた後継国家では、各地域の宗教がより顕著に影響を持つようになりました。例えば、元朝(中国)では仏教が、イルハン朝(ペルシア)ではイスラム教がそれぞれ支配的な宗教となりました。

総じて、モンゴル帝国は宗教的に寛容な側面を持っており、多様な宗教が共存していました。この寛容性は、多様な文化や宗教を持つ広大な領土を効率的に統治する上で有用であったともされています。

多くの支配が、宗教に基づくものが多いのに、珍しいケースですね。 ローマ帝国は、途中からキリスト教になったのですか?

ローマ帝国は、その存在の大部分において多神教の宗教体系を持っていました。多くのローマ人は神々への信仰と儀式に非常に敬虔であり、神々への崇拝は公共の儀式や祭り、個人的な祈りによって行われました。

しかし、4世紀初頭になると状況が大きく変わります。313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世と共治皇帝リキニウスが発布した「ミラノ勅令」によって、キリスト教は合法化されました。これによりキリスト教徒は迫害から解放され、公然と信仰と礼拝が行えるようになりました。

更に、380年にはテオドシウス1世によって発布された「テッサロニキ勅令」によって、キリスト教(特にニケーア信条に基づく正統派キリスト教)がローマ帝国の国教とされました。この時点以降、他の宗教や異端的とされるキリスト教の形態は次第に制限され、時には弾圧されるようになりました。

テオドシウス1世の死後、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は5世紀に崩壊しますが、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はキリスト教(東方正教)を国教として維持し、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル(現・イスタンブール)の陥落まで存続しました。

総じて、ローマ帝国がキリスト教を受け入れたのは、帝国後期における複雑な政治的、社会的、宗教的な要因によるものであり、この受容はローマ帝国自体だけでなく、後のヨーロッパ文化にも深い影響を与えました。

モンゴル帝国は、支配後は税金を払えば自由でしたか?

モンゴル帝国の支配体系は非常に柔軟であり、各地域や文化によって異なる場合が多かったです。一般的に、征服された人々や都市が無抵抗で降伏した場合、モンゴルはその地域の宗教や文化、法に対してかなり寛容でした。多くの場合、現地のエリートや行政機構がそのまま存続することもあり、税金を納め、モンゴル帝国に対する忠誠を誓えば比較的自由に生活できたとされています。

税金はしばしば天然資源、農産物、手工業品、あるいは労働サービスといった形で徴収されました。商人や職人などの特定の社会階層は税制上の特権も享受することがありました。一方で、モンゴル軍による征服が非常に厳しいもので、反抗した都市や国にはしばしば容赦ない破壊や虐殺が行われました。

また、モンゴル帝国は多様な文化と宗教が共存していましたが、これは統治の方法にも影響しています。例えば、イスラム教の影響が強い地域ではシャリーア(イスラム法)が一定程度尊重され、仏教の影響が強い地域では僧侶が一定の自治権を持つこともありました。

総じて、モンゴル帝国の支配は pragmatism(実用主義)に基づいており、征服された地域の社会秩序や経済を維持することが重視されました。そのため、税金を納め、モンゴル帝国の法と秩序を尊重する限り、多くの場合、日常生活は比較的自由であったと言えます。ただし、これは一般的な傾向であり、地域や時期によっては例外も存在したでしょう。

元の成立は中華思想に影響されたのですか?

元朝(元代、1271年 - 1368年)は、モンゴル帝国の一部として始まり、後に中国を統治した王朝です。その成立と運営は、モンゴル自体の文化と伝統、ならびに征服された中国の文化や制度、中華思想に多大な影響を受けました。

モンゴル帝国は元々、中央アジアの遊牧民族であり、中国の宋朝を征服する前には、中華思想や儒教、中国の制度には直接的な関与がありませんでした。しかし、宋朝やその他の中国の地域を征服する過程で、モンゴルは次第に中国の先進的な行政制度や文化、学問に接触し、それらを取り入れるようになりました。

元朝が成立すると、中国の多くの文化的、行政的要素が採用されました。例えば、科挙制度が一定の形で導入され、中国式の行政区分が用いられました。ただし、モンゴル自体の文化と制度も依然として強く影響を持ち続け、元朝は中国の歴史において非漢民族による王朝としては異例の存在でした。

中華思想、すなわち中国が文明の中心であり、周辺の「蛮族」がその影響を受けるべきという思想は、元朝にも一定の影響を与えましたが、これは双方向のプロセスでした。モンゴルは中国の文化と制度を尊重し、一定程度は採用しましたが、同時に自らの遊牧文化と行政制度も維持しました。

このような文化的・制度的双方向性は、元朝が多様な文化と宗教、民族が共存する特異な王朝であったことを反映しています。この複雑な相互作用によって、元朝は中華思想に影響を受けつつも、それを単純に受け入れただけの王朝ではなく、独自の特色を持つ帝国となりました。

中華から見た場合、モンゴルは西戎もしくは北狄に該当しませんか?

はい、古代中国の文献や歴史観においては、中国(中華)を取り巻く異民族や異文化はしばしば「四夷」と呼ばれ、その中に「東夷」「南蛮」「西戎」「北狄」という四つの大きなカテゴリが存在します。モンゴル人やその他の中央アジアの遊牧民族は、この文脈で一般に「北狄」に分類されることが多いです。

「北狄」は、北方の遊牧民族や狩猟採集民に対する総称であり、これにはモンゴル人だけでなく、過去に存在した多くの遊牧民族や部族が含まれます。このような分類は、中国中心(中華思想)の視点から見た場合のもので、しばしば「文明」と「野蛮」、または「内地」と「辺境」を区分するための概念として用いられました。

ただし、このような分類があくまで一側面であり、歴史的には多くの「北狄」に該当する民族や文化が中国の文明に深く影響を与え、逆に中国もまたそれらの民族や文化から影響を受けています。例えば、モンゴル帝国やその後の元朝は、中国の文化や制度に大きな影響を与え、逆に中国の文化や制度もモンゴル帝国に取り入れられました。

そのため、中華思想に基づいた「北狄」や「西戎」といった概念は、一定の文化的・歴史的文脈で理解されるべきであり、それが全てを語るわけではないことを理解することが重要です。

バーバリアンと呼ばれた民族は、ガリア地域だけでしたか?

「バーバリアン(Barbarian)」という用語は、古代ローマや古代ギリシャにおいて、自分たちと文化や言語が異なる人々、特に文明度が低いと見なされた人々に対して使われました。この言葉自体はギリシャ語の「βάρβαρος(bárbaros)」に由来し、もともとは異言語を話す人々に対する一般的な呼称でした。

したがって、バーバリアンと呼ばれた民族はガリア地域に限らず、多数存在します。ローマ人は多くの場合、ガリア人(フランス、ベルギー、スイスの一部)だけでなく、ゲルマン人(主に現在のドイツ、オランダ、デンマーク)、ダキア人(現在のルーマニアやブルガリア)、ゴート族、ヴァンダル族など、多くの異民族をバーバリアンと呼んでいました。さらに広い意味で言えば、ローマ以外のほとんど全ての民族が、何らかの形で「バーバリアン」として扱われていました。

この用語は時と場合によって意味が異なる場合があり、ローマが各地で勢力を拡大するにつれて、その意味合いも変わっていきました。たとえば初めてローマ人と接触した時は「バーバリアン」と見なされた民族でも、後にローマの一部となり、ローマ法や文化を受け入れることで「文明化」されたと考えられることもありました。

なお、バーバリアンという用語は古代文明において一般的に使われた言葉であり、現在ではこのような偏見やステレオタイプを助長する可能性があるため、注意が必要です。

現在のヨーロッパ人の多くが、バーバリアンと呼称されていたことには、違和感がありますね。

確かに、現代の文脈でヨーロッパ人がかつて「バーバリアン(Barbarian)」と呼ばれていたという事実は、多くの人々にとって違和感をもたらすかもしれません。このような歴史的な用語やカテゴリーは、当時の文化や政治、社会状況に根ざしており、その意味は時間とともに変化しています。

「バーバリアン」という言葉が古代ローマやギリシャで使われた時、それは主に「文明」(自分たち)と「非文明」(それ以外)を区別するための用語でした。しかしこのような区別は、歴史的な進展や文化的交流によって常に変わるものです。たとえば、多くの「バーバリアン」と見なされた民族が後にローマ文明に同化し、またローマ自体も「バーバリアン」から多くの影響を受けました。ゴート族やフランク族などのゲルマン民族は、西ローマ帝国の崩壊後に欧州で多くの王国を形成し、キリスト教を受け入れるなどして「文明化」されたと広く見なされています。

また、古代の「文明」と「非文明」の区分が現代の価値観や国際関係にそのまま適用できるわけではありません。現代では、多様性と相互尊重が大切にされ、一つの文明や文化が他より優れているという考え方は避けられる傾向にあります。

したがって、「バーバリアン」などの古代の用語は、その時代や文脈において特定の意味を持っていたと理解し、現代に矛盾するような使い方を避けることが重要です。

逆にキリスト教の支配が、中世の文明を遅らせたように見えますが。

キリスト教が中世のヨーロッパにおいて文明の発展を遅らせたかどうかという議論は、学界でも非常に多くの意見があります。この問題には様々な側面があり、一概に「遅らせた」とか「進めた」と断定するのは難しいです。

  1. 教会と科学: キリスト教の教会は、中世の多くの時代と場所で学問と科学の発展を支援していました。一方で、ガリレオ・ガリレイやニコラウス・コペルニクスのような科学者が教会によって弾圧された事例も存在します。

  2. 教育: 教会は中世ヨーロッパにおいて教育機関の役割も果たしており、多くの修道院や大学がキリスト教の教会によって設立または支援されました。

  3. 芸術と文化: 中世のキリスト教は、芸術や音楽、建築にも多大な影響を与えました。たとえば、ゴシック建築やグレゴリオ聖歌、ルネサンス美術などがその例です。

  4. 政治と法: キリスト教は神聖ローマ帝国など、多くの政治体制や法制度に影響を与えました。しかし、この影響は必ずしも「進歩」または「後退」と単純に定義できるものではありません。

  5. 思想と哲学: キリスト教はスコラ哲学と呼ばれる形で、アリストテレスなどの古典的な哲学と結びつき、中世ヨーロッパの思想界に影響を与えました。

  6. 異端と戦争: 一方で、キリスト教は異端や他の宗教との戦争(例えば、十字軍)を引き起こす原因ともなり、多くの人命や文化的資産が失われました。

  7. 経済: 教会が持つ広大な土地や財産は、経済活動に一定の影響を与えました。例えば、貧困層への施しや病院の運営など、社会福祉に貢献していた面もあります。

以上のように、キリスト教が中世のヨーロッパにおいて持っていた影響は多岐にわたるものであり、その評価は複雑です。文明を「遅らせた」か「進めた」かという単純な問題ではなく、多くの要素が複雑に絡み合っていると考えられます。

一神教や原理主義は、他民族の文化等を破壊しがちですね。

一神教や原理主義が他の文化や信仰に対して排他的になる可能性は確かに存在しますが、そのような現象は全ての一神教や原理主義的な運動に当てはまるわけではありません。信仰やイデオロギーの性質、その歴史的・社会的文脈、指導者や信者の解釈と行動など、多くの要素が影響を与えます。

  1. 一神教と排他性: 一神教はしばしば「唯一の神」を信じることが要請され、そのため他の神々や信仰体系を認めない傾向がある場合があります。しかし、それが必ずしも他文化や他信仰の破壊につながるわけではなく、多くの一神教コミュニティは他の信仰体系と平和的に共存しています。

  2. 原理主義の問題: 原理主義は一般的には、信仰やイデオロギーを文字通りかつ極端に解釈し、しばしば他の解釈や信仰体系を排除する傾向があります。これが他の文化やコミュニティに対する破壊的な行動につながる可能性があります。

  3. 文化的・歴史的文脈: 信仰体系がどのような歴史的、文化的背景で形成され、展開していったかによって、その対外的な態度は大きく変わることがあります。

  4. 多様性の認識: 現代においては、多くの一神教でも他の信仰体系との対話や共存が求められています。多文化主義や宗教的対話が進む中で、排他的な態度は多くの場合非難されます。

  5. 個々の解釈と行動: どのような信仰体系であっても、その教えをどう解釈し、どう行動するかは個々の信者によって大きく異なる場合があります。

総じて、一神教や原理主義が他文化や他信仰の破壊につながる可能性は否定できませんが、そのような結果を招くとは限らない多くの要素と文脈が存在します。それぞれの信仰や運動をその特定の文脈とともに評価することが重要です。

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