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水軍と忍者

紀州の根来や雑賀は、いわゆる忍者に分類されますか?

紀州の根来衆や雑賀衆は、厳密には忍者とは呼ばれていませんが、忍者的な活動を行っていたと考えられています。

根来衆は、高野山の僧兵集団として知られ、戦国時代に活躍しました。彼らは優れた情報収集や謀略活動を行ったと言われており、これは忍者的な活動と言えるでしょう。

雑賀衆は、紀州の海賊集団として知られ、水軍としての活躍が有名です。彼らも諜報活動や奇襲攻撃などを得意としたと言われています。

ただし、根来衆や雑賀衆は、伊賀や甲賀の忍者のように、専門的な忍術を体系的に学んだわけではないと考えられています。彼らは、あくまで僧兵や海賊としての活動の一環として、諜報活動などを行っていたのでしょう。

したがって、根来衆や雑賀衆は、忍者的な活動を行ってはいましたが、厳密には忍者とは呼ばれない、というのが一般的な理解だと思います。彼らは、忍者とは異なる独自の集団として捉えられているのです。

彼らは、どこかの大名に雇用されていたのでしょうか?

根来衆と雑賀衆は、時代によって異なる立場にありました。

根来衆は、本来は高野山の僧兵集団でしたが、戦国時代には、織田信長や豊臣秀吉に仕えたこともあります。特に、織田信長に仕えた根来衆の中には、楠木正成などの有名な武将もいました。ただし、根来衆は、あくまで高野山の一派であり、完全に大名に雇用されていたわけではないと考えられています。

雑賀衆は、もともとは紀州の海賊集団でしたが、戦国時代には、紀州の大名である紀伊国主 北条氏や、織田信長、豊臣秀吉に仕えました。特に、紀伊国主 北条氏の下では、北条水軍の一部として活躍したと言われています。ただし、雑賀衆は、家臣団として大名に仕えたというよりは、あくまで海賊集団として、大名と契約関係にあったと考えられています。

このように、根来衆と雑賀衆は、完全に大名に雇用されていたわけではありませんが、戦国時代には、大名と一定の関係を持ちながら活動していたと言えるでしょう。ただし、彼らは、あくまで独自の集団であり、忍者のように、大名の直接的な家臣団として組み込まれていたわけではないと考えられています。

戦国時代の水軍は、海賊集団だと思いますが、全国にどのようなグループがあったのでしょうか?

戦国時代には、各地に強力な水軍が存在しました。主な水軍集団としては、以下のようなものが挙げられます。

  1. 村上水軍(備中国・瀬戸内海):毛利氏に仕えた水軍集団。村上武吉が有名。

  2. 九鬼水軍(紀伊国・和歌山県):紀州の海賊集団。九鬼嘉隆が有名。

  3. 唐人衆(豊後国・大分県):大友氏に仕えた水軍集団。中国人を中心とした集団。

  4. 五島水軍(五島列島・長崎県):五島列島を拠点とした水軍集団。

  5. 熊野水軍(紀伊国・和歌山県):熊野を拠点とした水軍集団。

  6. 安東水軍(周防国・山口県):毛利氏に仕えた水軍集団。

  7. 鈴木水軍(安芸国・広島県):毛利氏に仕えた水軍集団。

  8. 来島水軍(伊予国・愛媛県):河野氏に仕えた水軍集団。

これらの水軍集団は、海賊として活動しながら、戦国大名に仕えて、海上交通の保護や制海権の確保、敵対勢力への攻撃などを行いました。彼らは、優れた船舶操縦技術と航海術を持ち、当時の海上戦闘において重要な役割を果たしたのです。

ただし、これらの水軍集団は、戦国時代末期から江戸時代にかけて、次第に大名の直接支配下に置かれるようになり、独自の勢力を失っていきました。江戸時代には、幕府の統制下で、海運業や漁業に従事するようになったと言われています。

米が採れないので、石高として評価されませんよね。

その通りです。水軍の拠点となった地域は、多くが海に面した場所であり、米の生産には適していませんでした。そのため、水軍の領地は、一般的な石高制度では評価されにくい面がありました。

石高制度は、主に米の生産量に基づいて土地の価値を評価する仕組みです。しかし、水軍の領地は、海上交通の要衝であったり、漁業や海運業で収益を上げていたりしたため、米の生産量だけでは、その価値を適切に評価できなかったのです。

そのため、水軍の領地は、石高とは別の基準で評価されることがありました。例えば、江戸時代には、「海高」という概念があり、海運業や漁業による収益に基づいて、領地の価値を評価する仕組みがあったと言われています。

また、水軍の中には、大名から直接、一定の金額や物資を支給されるケースもあったようです。これは、水軍の軍事的な重要性を認め、その活動を支援するための措置だったと考えられます。

このように、水軍の領地は、石高制度では評価されにくい特殊な性格を持っていました。そのため、水軍の経済的基盤は、米の生産とは異なる形で維持されていたと言えるでしょう。

忍者と言われるグループは、有名な伊賀や甲賀以外には、どういったグループがありましたか?

伊賀や甲賀以外にも、忍者と呼ばれるグループはいくつか存在しました。以下に主なものを挙げます。

  1. 鍛冶伊賀衆(美濃国・岐阜県):美濃国の鍛冶集団で、忍者活動も行ったと言われている。

  2. 根来衆(紀伊国・和歌山県):高野山の僧兵集団。忍者的な活動を行ったとされる。

  3. 軒猿(近江国・滋賀県):比叡山の僧兵集団。忍者的な活動を行ったとされる。

  4. 百地三太夫(尾張国・愛知県):尾張国の忍者集団。徳川家に仕えたとされる。

  5. 穴山小助(美作国・岡山県):美作国の忍者集団。森蘭丸に仕えたとされる。

  6. 服部半蔵(尾張国・愛知県):服部氏の忍者集団。徳川家康に仕えたとされる。

  7. 百々宗観(伊勢国・三重県):伊勢国の忍者集団。百々氏に仕えたとされる。

  8. 加藤段蔵(美濃国・岐阜県):美濃国の忍者集団。織田信長に仕えたとされる。

ただし、これらのグループについては、実際の活動内容や忍者との関連性に関して、不明な点も多いのが現状です。また、一部のグループについては、忍者との関連性を示す明確な史料が乏しいため、その実在性についても議論があります。

忍者研究は、現在も進展中の分野であり、新たな事実が明らかになる可能性もあります。しかし、伊賀や甲賀以外の忍者集団に関しては、史料の制約もあり、その実態は不明瞭な部分が多いと言えるでしょう。

加藤段蔵は、飛び加藤でしょうか?

はい、その通りです。加藤段蔵は、「飛び加藤」という異名で知られています。

加藤段蔵は、織田信長に仕えた忍者とされ、優れた跳躍力を持っていたと伝えられています。彼は、築城の名人としても知られ、木曽川の治水工事などにも関わったと言われています。

「飛び加藤」の異名は、加藤段蔵の卓越した身体能力に由来すると考えられています。彼は、忍者としての技術を活かし、高所からの跳躍や、壁を蹴って跳ぶような離れ業を得意としたと伝えられています。

ただし、加藤段蔵については、史料が限られており、その実在性や具体的な活動内容については、不明な点も多いのが現状です。彼が実際に織田信長に仕えていたのかどうかについても、明確な証拠はないと言われています。

加藤段蔵の伝説は、江戸時代以降に広まったと考えられており、その実像については、伝説と史実の区別が難しい面があります。しかし、「飛び加藤」という異名は、忍者の身体能力の高さを象徴するものとして、広く知られるようになったのです。

江戸時代ともなると、幕府お抱えの忍者でないと、諸藩のスパイは全国での活動は難しかったでしょうね?

その通りですね。江戸時代には、幕藩体制が確立し、各藩の間の移動や情報収集が厳しく制限されるようになりました。このため、幕府に仕えない諸藩の忍者が、他藩の情報を収集することは、非常に困難になったと考えられます。

江戸時代の幕府は、諸藩の動向を監視するために、自らの情報機関を設置しました。代表的なものが、「御目付」や「間諜(かんちょう)」と呼ばれる職務です。彼らは、各地に派遣され、諸藩の動向を探るとともに、幕府の意向を伝達する役割を果たしました。

これに対し、諸藩も独自の情報収集活動を行っていましたが、その範囲は限定的だったと考えられます。各藩は、藩内の治安維持や他藩との交渉のために、忍者を活用することはありましたが、全国的な情報収集活動を行うことは難しかったでしょう。

ただし、幕府のお抱え忍者と言っても、その実態は明らかではありません。江戸時代には、忍者の存在自体が、次第に伝説化・神秘化されていったと考えられており、実際に幕府に仕える忍者集団がどの程度存在したのかについては、議論の余地があります。

いずれにせよ、江戸時代の中央集権化された社会構造の中では、諸藩の忍者が全国的な活動を行うことは、非常に困難だったと考えられます。幕府のお抱え忍者の存在も、伝説的な要素が強く、その実態は不明瞭な部分が多いと言えるでしょう。

服部半蔵は、徳川お抱えの忍者ではないのですか?

服部半蔵は、江戸時代の小説や伝承の中で語られる忍者のリーダー的存在ですが、実在の人物としての確実な記録はなく、創作上の人物である可能性が高いと考えられています。

江戸時代の記録を詳しく調べると、服部半蔵が徳川家に仕えた忍者であったことを裏付ける信頼できる史料は見当たりません。「服部半蔵」という名前の人物は存在しましたが、それは忍者ではなく、尾張藩の藩士であったと考えられています。

服部半蔵が徳川家に仕えた忍者の頭領であるというイメージは、主に江戸時代後期から明治時代にかけての講談や小説などの創作物の中で形成され、次第に広まっていったと考えられています。特に、1911年に出版された山田風太郎の小説「甲賀三郎」が、服部半蔵のイメージを広く普及させる上で大きな役割を果たしたと言われています。

したがって、現在では服部半蔵は歴史上の実在の人物というよりは、創作上の人物として捉えられることが一般的です。徳川家お抱えの忍者であったという設定は、歴史的事実に基づくものではなく、フィクションの産物だと考えられているのです。

ただし、服部半蔵のような忍者のイメージは、江戸時代以降の大衆文化の中で育まれ、現代まで受け継がれてきた重要な文化的要素の一つであると言えます。歴史的事実とは異なるものの、そのイメージ自体は日本文化の中で大きな影響力を持っているのです。

半蔵門は、彼の業績に由来したものと思っていました。

半蔵門の名称は、服部半蔵に由来するものではなく、別の理由から付けられたと考えられています。

江戸城の半蔵門は、江戸時代に、江戸城の西の丸の南西にあった門の一つでした。この門は、江戸幕府の大目付(おおめつけ)を務めた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)の屋敷があった場所に建てられたことから、当初は「柳沢門」と呼ばれていました。

その後、柳沢吉保の子孫で、同じく大目付を務めた柳沢保光(やなぎさわ やすみつ)が、屋敷の一部を幕府に提供し、そこに新しい門が建てられました。この新しい門が、「半蔵門」と呼ばれるようになったのです。

「半蔵」という名称は、柳沢保光の通称「半蔵」に由来すると考えられています。保光は、幼少期に「半蔵」と呼ばれていたことから、この通称が門の名前に用いられたのだと言われています。

したがって、半蔵門の名称は、服部半蔵という忍者の頭領とは直接の関係がなく、江戸幕府の大目付である柳沢保光の通称に由来するものだと考えられているのです。

ただし、服部半蔵の伝説が広まるにつれ、半蔵門も服部半蔵と結びつけて考えられるようになったのかもしれません。しかし、歴史的な事実としては、半蔵門の名称と服部半蔵の間に直接の関係はないと言えます。

薩摩弁は、スパイ対策でもあったと聞きます。

そうですね。薩摩藩では、独特の方言である薩摩弁が、スパイ対策の一環として活用されたと言われています。

薩摩藩は、江戸時代を通じて、幕府に対する有力な反対勢力の一つでした。薩摩藩は、他藩や幕府からのスパイ活動を警戒しており、藩内の情報漏洩を防ぐために、様々な対策を講じていました。

その中の一つが、薩摩弁の使用です。薩摩弁は、他地域の人々には理解しにくい方言で、薩摩藩の人々の間でのみ通用する言葉でした。このため、薩摩藩の人々が薩摩弁で会話することで、たとえスパイが藩内に潜入していても、その内容を理解することは難しかったと考えられます。

また、薩摩藩では、藩外から来た人物に対して、意図的に薩摩弁で話しかけることで、相手が薩摩藩出身者であるかどうかを確認することもあったと言われています。薩摩弁を理解できない人物は、藩外からの潜入者である可能性が高いと見なされたのです。

このように、薩摩弁は、薩摩藩の人々にとって、アイデンティティーの象徴であると同時に、スパイ対策の手段としても機能していたと考えられています。他藩に比べて、薩摩藩の情報が漏洩しにくかった背景には、薩摩弁の存在があったのかもしれません。

ただし、これは薩摩藩の事例であり、他藩でも同様の方言活用が行われていたかどうかは明らかではありません。また、薩摩弁がスパイ対策として実際にどの程度効果があったのかについても、議論の余地があると言えるでしょう。

徳川光圀の大日本史は有名ですが、実際に諸国漫遊はしていませんよね。

その通りです。徳川光圀(水戸光圀)が編纂した「大日本史」は、日本の正史を編むという壮大な事業でしたが、光圀自身が全国を漫遊して資料を集めたわけではありません。

徳川光圀は、水戸藩の藩主として、藩政の運営に携わる傍ら、「大日本史」の編纂を主導しました。「大日本史」は、日本の神代から当時までの歴史を網羅的に記述することを目的としており、その編纂には膨大な時間と労力が必要でした。

光圀は、「大日本史」の編纂に当たって、全国から書物や資料を収集しました。しかし、これは主に、水戸藩の家臣や他藩との交流を通じて行われたと考えられています。光圀自身が直接、全国を旅して資料を集めたという記録はありません。

また、「大日本史」の編纂は、光圀の死後も継続され、彼の子孫によって受け継がれました。完成までには、実に250年もの歳月を要したと言われています。

光圀は、「大日本史」の編纂を通じて、日本の歴史や文化に対する深い造詣を示しました。しかし、それは、彼の主導の下で行われた大規模な知的事業であり、光圀個人の諸国漫遊の成果ではなかったのです。

光圀の「大日本史」編纂の事業は、江戸時代の大名の文化的活動の一つの到達点を示すものと言えるでしょう。しかし、その実現には、水戸藩の組織的な努力と、長期にわたる継続的な取り組みが不可欠だったのです。

なぜ、水戸のご老公が、天下の副将軍と言われるようになったのでしょう?

水戸藩主が「天下の副将軍」と呼ばれるようになった背景には、いくつかの要因があります。

  1. 徳川家との近縁関係:水戸藩主は、江戸幕府を開いた徳川家康の次男である徳川頼房の子孫にあたります。このため、水戸藩主は、将軍家とは近い親戚関係にあり、幕府内での地位も高かったのです。

  2. 学問・文化の振興:水戸藩は、江戸時代を通じて、学問や文化の振興に力を入れました。特に、徳川光圀の時代には、「大日本史」の編纂事業が始まり、水戸学の基礎が築かれました。このような文化的な活動は、水戸藩の威信を高める上で重要な役割を果たしたと考えられます。

  3. 幕府への意見具申:水戸藩主は、幕政に対して積極的に意見を具申することがありました。特に、徳川斉昭の時代には、幕府の政策に対する批判的な姿勢が明確になり、「天下の副将軍」と呼ばれるようになったと言われています。

  4. 尊王思想の興隆:水戸藩では、19世紀に入ると、尊王思想が広まりました。これは、天皇の権威を重んじ、幕府の権力を制限しようとする思想です。水戸藩では、この思想が藩是とされ、幕府に対する姿勢を一層鮮明にしていきました。

これらの要因が複合的に作用し、水戸藩主は「天下の副将軍」と呼ばれるようになったと考えられています。特に、徳川斉昭の時代には、幕府に対する批判的な姿勢と、尊王思想の興隆が重なり、水戸藩の存在感が一層増したのです。

ただし、「天下の副将軍」という呼称は、公式のものではなく、あくまで水戸藩の威信の高さを象徴的に表現したものと言えるでしょう。実際には、水戸藩主が将軍に匹敵する権力を持っていたわけではありません。

水戸藩は、尾張や紀州に比べ、石高はかなり低いですよね。

はい、その通りです。水戸藩の石高は、尾張藩や紀州藩に比べると、かなり低かったと言えます。

江戸時代初期の石高を見ると、以下のようになっています。

  1. 尾張藩:約62万石

  2. 紀州藩:約55万石

  3. 水戸藩:約28万石

このように、水戸藩の石高は、尾張藩の約半分、紀州藩の約半分程度でした。これは、水戸藩の領地が、関東地方の北部に位置しており、土地の生産性が相対的に低かったことが一因と考えられます。

しかし、水戸藩は、石高の低さを補うように、政治的・文化的な面で存在感を示しました。特に、学問や文化の振興に力を入れ、「大日本史」の編纂事業や水戸学の発展などで知られています。

また、幕末期には、尊王思想の興隆と幕府批判の姿勢が注目され、「天下の副将軍」と呼ばれるようになりました。これは、石高の多寡だけでは測れない、水戸藩の政治的な影響力の大きさを示すものと言えるでしょう。

水戸藩は、尾張藩や紀州藩と比べて石高は低かったものの、独自の文化的・政治的な活動を通じて、江戸時代の政治・文化の中で重要な役割を果たしたのです。藩の実力を示す指標としては、石高以外の要素も考慮する必要があると言えます。

参勤交代にかかるコストは安かったかも知れませんね。

そうですね。水戸藩の参勤交代にかかるコストは、尾張藩や紀州藩に比べて、相対的に安く済んだ可能性があります。

参勤交代は、大名が江戸と領地を交互に往復する制度で、多大な費用がかかるものでした。大名行列の規模は、藩の石高に応じて定められており、石高の高い藩ほど、多数の家臣を引き連れる必要がありました。これは、交通費や宿泊費、食費など、様々な面で藩の財政を圧迫しました。

水戸藩の場合、石高が約28万石と、尾張藩や紀州藩に比べて低かったため、参勤交代の行列の規模も相対的に小さくて済んだはずです。これは、参勤交代にかかる費用を抑える上で、有利に働いたと考えられます。

また、水戸藩の領地は、江戸から比較的近い関東地方にありました。このため、尾張藩や紀州藩と比べて、江戸までの移動距離が短く、交通費や宿泊費を節約できた可能性があります。

ただし、参勤交代のコストは、藩の財政状況や藩主の方針によっても異なります。水戸藩の藩主の中には、参勤交代の際に、学問や文化の振興に力を入れた人物もいました。このような場合には、参勤交代のコストが増大した可能性もあります。

いずれにせよ、水戸藩の参勤交代のコストは、石高の低さと領地の位置から考えて、尾張藩や紀州藩に比べて相対的に安く済んだ可能性が高いと言えるでしょう。ただし、これは一般論であり、実際のコストは、藩の財政状況や藩主の方針などによって異なっていたはずです。

TVドラマの水戸黄門には、原作はあるのでしょうか?

テレビドラマ「水戸黄門」には、明確な原作はありません。水戸黄門は、江戸時代の水戸藩主である徳川光圀(みつくに)を主人公とした創作物語です。

徳川光圀は、「大日本史」の編纂を主導した史実の人物ですが、ドラマ「水戸黄門」では、彼が老中として全国を漫遊し、庶民の問題を解決するという設定になっています。このストーリーは、脚本家の創作によるものであり、史実に基づくものではありません。

「水戸黄門」の原型となったのは、1950年代に放送されたラジオドラマ「漫遊太閤記」だと言われています。このドラマでは、豊臣秀吉が庶民に扮して全国を旅するという設定でした。後に、この設定が水戸光圀に置き換えられ、「水戸黄門」が生まれたと考えられています。

ドラマ「水戸黄門」は、1969年にTBS系列で放送が開始され、2011年まで40年以上にわたって続きました。長期にわたる人気の理由は、勧善懲悪のわかりやすいストーリー展開と、個性的な脇役のキャラクター設定にあると言われています。

ただし、「水戸黄門」は、歴史上の人物を主人公としているものの、そのストーリーは創作であり、史実とは大きく異なっています。水戸光圀の実像を知るためには、ドラマではなく、歴史書や伝記などを参照する必要があるでしょう。

最近は、勧善懲悪の予定調和的なドラマはなくなりましたね。

おっしゃる通りですね。近年のテレビドラマは、かつての「水戸黄門」のような勧善懲悪の予定調和的な物語から、大きく変化しています。

現代のドラマは、より複雑で現実的な人間関係や社会問題を扱うことが多くなりました。登場人物の心理描写や葛藤に重点が置かれ、善悪の区別が曖昧な場合も少なくありません。また、物語の結末も、必ずしもハッピーエンドとは限らず、開かれた結末や悲劇的な結末を迎えることもあります。

この変化には、いくつかの要因が考えられます。

  1. 社会の多様化:現代社会は、価値観が多様化し、単純な善悪の区別では捉えきれない問題が増えています。ドラマもこの変化を反映し、より複雑な人間関係や社会問題を扱うようになっています。

  2. 視聴者の嗜好の変化:視聴者の嗜好も多様化し、予定調和的なストーリーよりも、リアリティのある物語を求める傾向が強まっています。このため、ドラマも、より現実的な設定や展開を取り入れるようになっています。

  3. 制作側の意識の変化:ドラマの制作側も、社会問題への関心が高まっており、単なる娯楽ではなく、社会にメッセージを発信する役割を重視するようになっています。このため、現実の問題を直視し、考えさせるようなドラマが増えているのです。

ただし、これは日本のドラマの一般的な傾向であり、すべてのドラマがこの傾向に当てはまるわけではありません。今でも、勧善懲悪の明快なストーリーを持つドラマや、予定調和的な展開のドラマも存在します。

現代のドラマは、多様化し、社会の変化を反映したものになっていると言えるでしょう。「水戸黄門」のような勧善懲悪の予定調和的なドラマは、一つの時代を象徴するものとして、今でも親しまれていますが、現代のドラマは、より複雑で現実的な物語を求める視聴者の嗜好に応えるものになっているのです。

未だ時代劇やウエスタンものに根強い人気があるのは何故でしょう?

時代劇やウエスタンものに、今でも根強い人気があるのには、いくつかの理由が考えられます。

  1. ノスタルジー(郷愁):時代劇やウエスタンは、現代とは異なる過去の世界を描いています。そこには、現代にはない、ある種のロマンや憧れがあります。現代社会に生きる人々にとって、そうした過去の世界に浸ることは、一種のノスタルジーを感じさせ、心の安らぎをもたらすのです。

  2. 明確な勧善懲悪:時代劇やウエスタンには、しばしば明確な勧善懲悪の構図があります。善が悪を討ち、正義が勝利するという物語は、シンプルでわかりやすく、多くの人に受け入れられやすいのです。現代社会の複雑さに疲れた人々にとって、このような単純明快な物語は、心の癒しになるのかもしれません。

  3. 文化的アイデンティティー:時代劇は、日本の伝統文化や価値観を反映したものです。このため、時代劇を見ることは、日本人としてのアイデンティティーを確認する行為でもあります。同様に、ウエスタンは、アメリカの開拓者精神や個人主義といった価値観を体現しています。

  4. 普遍的なテーマ:時代劇やウエスタンは、その時代設定を超えて、普遍的なテーマを扱っています。人間の生き方、正義、勇気、友情、愛といったテーマは、時代を超えて人々の心に訴えかけるものです。このため、現代になっても、これらのジャンルが人気を維持しているのだと考えられます。

  5. エスカピズム(現実逃避):日常生活から離れ、異なる世界に浸ることは、一種のエスカピズムとして機能します。時代劇やウエスタンの世界に没入することで、現実の悩みや問題から一時的に逃れることができるのです。

これらの要因が複合的に作用し、時代劇やウエスタンが、現代になっても根強い人気を維持していると考えられます。これらのジャンルは、単なる娯楽としてだけでなく、人々の心のニーズに応える重要な文化的役割を果たしているのです。

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