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ジャズエイジ(第Ⅲ部:アンタッチャブル)

米国のジャズエイジにおける禁酒法とマフィアの関係を教えてください。

米国のジャズエイジ(1920年代)における禁酒法とマフィアの関係は、非常に複雑で影響力のあるものでした。1920年に施行された禁酒法(ボルステッド法)は、アルコールの製造、輸送、販売を違法としました。この法律の結果として起きたことは以下の通りです:

  1. 地下経済の台頭: 禁酒法により、合法的なアルコール市場が消滅し、地下市場が急速に成長しました。この地下市場は、マフィアや他の犯罪組織にとって絶好のビジネスチャンスとなりました。

  2. マフィアの台頭: 禁酒法時代には、アル・カポネのようなマフィアのボスが有名になりました。彼らは密造酒の製造、密輸、そして販売によって莫大な利益を上げ、その力を拡大しました。

  3. 暴力の増加: 禁酒法は、マフィア間の領域争いや警察との対立を引き起こし、暴力事件の増加につながりました。特にシカゴなどの大都市では、マフィア同士の抗争が激化しました。

  4. 政治との関連: マフィアは不法なアルコール取引から得た利益を使って、政治家や警察官を買収し、自らの活動を保護しました。これにより、法執行機関の腐敗が進み、禁酒法の施行を一層困難にしました。

  5. 文化的影響: 禁酒法時代は、スピークイージー(密造酒バー)の隆盛を見ました。これらの場所はジャズ音楽と結びつき、1920年代の文化的アイコンとなりました。

結局、禁酒法は1933年に撤廃されましたが、この時代はアメリカ社会における犯罪組織の台頭と腐敗の拡大を示す重要な時期として記憶されています。

医者の処方があればウイスキーは買えたんですね?

はい、実はアメリカの禁酒法時代には、医師の処方箋があれば合法的にウイスキーを購入することができました。禁酒法(ボルステッド法)は1920年から1933年まで施行されていたものの、法律にはいくつかの例外が存在しました。

その一つが「医療用アルコール」でした。当時、アルコールはある種の医学的治療に使われていたとされ、医師は「医療目的」でウイスキーを含むアルコールを患者に処方することが認められていました。患者はこの処方箋を薬局に持っていき、合法的にアルコールを入手することができたのです。

この抜け穴は広く利用され、多くのアメリカ人が「健康上の理由」でアルコールを手に入れました。しかし、このシステムはしばしば悪用され、禁酒法の有効性を弱める要因の一つとなりました。医師や薬局がこの規定を利用して、非合法な利益を得ることも少なくありませんでした。禁酒法の施行により、アルコールの合法的な入手方法は限られていたため、このような医療用アルコールの処方は非常に人気がありました。

敵対国ドイツ産のビールを制限する目的と聞きました。

禁酒法(ボルステッド法)が施行された背景には複数の要因がありますが、敵対国ドイツ産のビールを制限する目的が一部として含まれていたことは事実です。この視点は、第一次世界大戦(1914-1918年)の文脈と深く関連しています。

第一次世界大戦中、ドイツはアメリカ合衆国の敵国でした。当時、アメリカのビール産業はドイツ系アメリカ人によって大きく支えられており、ビールはドイツの文化的象徴として広く認識されていました。戦時中の反ドイツ感情は、ビール産業への敵意に繋がり、この業界がドイツにシンパシーを持っているという認識が広まりました。

このような反ドイツ感情は、禁酒運動を支持する強力な要因となり、多くの人々がアルコールの禁止をドイツとの関連から支持しました。また、禁酒運動自体は既に19世紀から存在しており、宗教的、道徳的、社会的な理由からアルコール消費に反対する運動が盛り上がっていました。

しかし、禁酒法の主な目的はアルコール消費の道徳的・社会的問題への対応であり、ドイツ産ビールの制限はその副次的な要素であったと考えられています。禁酒法はアルコール全般の製造、輸送、販売を違法化しましたが、これは特定の国の製品に対するものではなく、アルコール自体に対するものでした。

全ての州で実施されたのですか?

禁酒法(ボルステッド法)は、アメリカ合衆国全体に適用された連邦法でした。これは、1919年に修正第18条として憲法に追加され、1920年から1933年まで施行されました。この法律は、アメリカ全土でアルコールの製造、販売、輸送を禁止しました。

しかし、禁酒法の施行と遵守は州によって異なりました。一部の州や地域では、禁酒法に対して強い支持と厳格な執行が見られました。特に南部や中西部のいくつかの州では、禁酒運動が非常に強力でした。

一方で、他の州では法律があまり厳格には守られませんでした。特に大都市や、文化的にアルコールが日常生活に根ざしている地域では、禁酒法の遵守は緩やかで、密造酒や違法な酒場(スピークイージー)が盛んに存在していました。

また、いくつかの州では禁酒法が連邦法として施行される前から、自らの州法によってアルコール禁止を定めていました。これらの州では、禁酒法の施行は既に存在する州法を補強する形となりました。

全体として、禁酒法は全国的な法律であったものの、その適用と施行は地域によって大きく異なり、多くの場合、効果的な執行は困難であったとされています。このため、1933年の修正第21条によって禁酒法は撤廃されました。

アンタッチャブルには原作があるのでしょうか?

はい、「アンタッチャブル」には原作があります。映画「アンタッチャブル」は、1987年に公開され、有名な禁酒法時代の連邦捜査官エリオット・ネスとシカゴのマフィアのボス、アル・カポネとの戦いを描いています。

この映画はエリオット・ネスとオスカー・フレイリーが共著した自伝的書籍『The Untouchables』を原作としています。この本は、ネスが禁酒法執行局のエージェントとしてアル・カポネを捕えるために戦った経験に基づいて書かれており、彼が率いた「アンタッチャブル」と呼ばれるチームの活動を描いています。

映画では、この実話に基づきながらも、ドラマチックな要素が追加され、いくつかの事実が変更されています。ブライアン・デ・パルマが監督を務め、ケビン・コスナーがエリオット・ネスを、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネを演じています。映画は高い評価を受け、特にショーン・コネリーの演技がアカデミー助演男優賞を受賞しました。

どのような点が、誇張されたりしているのでしょう?

映画『アンタッチャブル』は、エリオット・ネスと彼のチームがアル・カポネを追い詰める実話に基づいていますが、映画のために多くのドラマチックな要素が加えられ、いくつかの点で実際の歴史と異なっています。主な誇張や変更点は以下の通りです:

  1. エリオット・ネスのチームの描写: 実際には「アンタッチャブル」と呼ばれたネスのチームは、映画で描かれるよりも多くのメンバーで構成されていました。また、映画に登場する主要なキャラクターのいくつかは創作されたものです。

  2. アクションシーンの追加: 映画には、シカゴのユニオン駅での有名な銃撃戦シーンなど、実際には起こらなかったアクションシーンが含まれています。これらはドラマを高めるために加えられました。

  3. アル・カポネの逮捕: 映画では、ネスと彼のチームがアル・カポネを逮捕する重要な役割を果たしていますが、実際にはカポネの逮捕は主に税務違反の証拠に基づいており、他の連邦捜査官や機関も関与していました。

  4. キャラクターの性格描写: エリオット・ネスやアル・カポネなど、実在の人物の性格や行動は映画の中でドラマチックに誇張されています。特にカポネの暴力的なシーンなどは、彼の人物像を強調するために加えられた要素です。

  5. エピソードの追加: 映画には、歴史的な記録にはないエピソードや対話が数多く含まれています。

これらの誇張や変更は、エンターテイメントとしての映画の魅力を高めるために行われましたが、実際の歴史的事実とは異なる部分が多いことを理解することが重要です。映画は実話に基づいていますが、フィクションの要素が強く加えられている点を視聴者は意識する必要があります。

エリオット・ネスは、功績をあげて出世したのでしょうか?

エリオット・ネスは、アル・カポネを逮捕し有名になったことで知られていますが、その後のキャリアは一般的に思われるほど華々しいものではありませんでした。彼の人生とキャリアはいくつかの重要な段階を経ています。

  1. カポネ逮捕後のキャリア: カポネを捕らえることに成功した後、ネスは禁酒法執行局(後のアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局、ATF)での立場を強化しました。しかし、1930年代の禁酒法撤廃後は、彼の役割は減少しました。

  2. クリーブランドでの活動: ネスはその後、クリーブランド市の安全ディレクターとして活動し、警察の腐敗と戦い、交通安全の改善に取り組みました。しかし、彼のこの時期の活動は、アル・カポネ逮捕時ほどの注目を集めることはありませんでした。

  3. 政治への挑戦: ネスは1947年にクリーブランド市長に立候補しましたが、選挙には敗れました。

  4. 晩年: その後のネスのキャリアはあまり成功せず、ビジネスの失敗や個人的な問題に苦しむこととなります。彼は1957年に57歳で亡くなりました。

エリオット・ネスの名声は主にアル・カポネとの対決に関連していますが、その後の彼の人生は多くの挑戦と困難に直面していました。彼は一時期、アメリカの法執行の象徴的人物となりましたが、晩年は公的な注目から遠ざかっていたことが知られています。

彼は国税局の職員としての立場で、カポネ逮捕の指揮を執っていたのですか?

エリオット・ネスは、アル・カポネ逮捕の際、国税局の職員としてその指揮を執っていたわけではありません。ネスは禁酒法執行局(Prohibition Bureau)のエージェントであり、禁酒法違反の捜査に従事していました。アル・カポネの逮捕は、主に彼の税務違反に関連していたため、国税局(Internal Revenue Service, IRS)が中心となって行われました。

ネスの役割は、アル・カポネの違法な酒類取引に焦点を当てたもので、彼は特に「アンタッチャブル」と呼ばれる小さな信頼できる捜査チームを率いて、カポネの組織に浸透し、その犯罪活動を暴くことに集中していました。このチームはカポネのビジネスを妨害し、彼に対する証拠を集めることに成功しましたが、最終的にカポネを投獄に追い込んだのは税務違反に関する証拠でした。

国税局のフランク・ウィルソンと彼のチームが、カポネの税務記録を調査し、彼に対する税務違反の証拠を見つけ出したことが、カポネが有罪判決を受ける決定的な要因でした。ネスと彼のチームの活動はカポネの弱体化に寄与したものの、彼の逮捕と有罪判決は主に国税局の手によるものでした。

最終的にカポネに課せられた刑罰はどのようなものでしたか?

アル・カポネに課せられた刑罰は、税務違反に関するものでした。1931年に裁判が行われ、カポネは所得税の申告を怠った罪で有罪判決を受けました。彼は以下の刑罰を受けました:

  1. 懲役刑: カポネは11年の懲役刑を言い渡されました。これは、当時の税務違反に対する刑罰としては非常に重いものでした。

  2. 罰金と裁判費用: 彼はまた、50,000ドルの罰金と、裁判費用として約30,000ドルを支払うよう命じられました。

  3. アトランタ連邦刑務所とアルカトラズ刑務所での服役: カポネは最初、ジョージア州アトランタの連邦刑務所に収監されました。しかし、彼が刑務所内での特権を享受しているとの噂が広まったため、より厳重なアルカトラズ刑務所へと移送されました。

カポネの有罪判決は、アメリカ合衆国における組織犯罪への大きな一撃であり、法の支配を確立する上で重要な意味を持ちました。彼の逮捕と有罪判決は、犯罪組織のリーダーであっても法の前には平等であるというメッセージを国民に送ることになりました。カポネは1947年に刑務所を出所しましたが、その後まもなく健康問題のために亡くなりました。

禁酒法の終焉はどのように迎えましたか?

禁酒法(ボルステッド法)の終焉は、アメリカ合衆国において1933年に起こりました。この法律の撤廃は、いくつかの段階を経て実現しました:

  1. 公衆の支持の減少: 禁酒法の施行は多くの問題を引き起こしました。非合法の酒類の流通が増加し、犯罪組織が力を伸ばし、政府の税収が減少しました。また、多くのアメリカ市民は禁酒法を不人気で非現実的な法律と見なし始めていました。

  2. 経済的要因: 1929年の大恐慌により、アメリカ経済は深刻な不況に陥りました。政府は新しい税収源としてアルコールの合法化を考え、また雇用創出の機会としても考慮しました。

  3. フランクリン・D・ルーズベルトの大統領就任: 1933年に大統領に就任したルーズベルトは、禁酒法の撤廃を支持していました。彼の就任は、禁酒法撤廃への道を開く重要な要素となりました。

  4. 修正第21条の批准: 1933年、修正第21条が批准され、禁酒法を撤廃する法的なプロセスが完了しました。これにより、修正第18条(禁酒法を定めた法律)は無効となりました。

  5. 州による規制への移行: 禁酒法の撤廃後、アルコールに関する規制は連邦政府から各州に移されました。各州は自らの法律に基づいてアルコールの販売と消費を規制することとなりました。

禁酒法の撤廃は、アメリカの歴史における重要な転換点であり、その後のアメリカ社会と政策に大きな影響を与えました。法律の撤廃は、禁酒法がもたらした多くの問題を解消することを意図していましたが、その結果として各州におけるアルコール規制の多様性が生まれました。

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