見出し画像

魏志倭人伝

魏志倭人伝って、三国志の一部なんでしょうか?

魏志倭人伝は三国志の一部ではありません。三国志は、中国の三国時代(220年~280年)の歴史を記した歴史書で、陳寿によって書かれました。一方、魏志倭人伝は三国志の中の「魏書」の一部として収録されている、倭人(日本人の祖先)に関する記述です。

魏志倭人伝は、三国時代の魏の時代(220年~265年)に中国人が倭国を訪れた際の記録と考えられています。倭人の風習、社会構造、地理などが記されており、古代日本の状況を知る上で貴重な歴史的資料となっています。

ただし、魏志倭人伝の内容には不明確な点も多く、記述の解釈をめぐって学説も分かれています。また、中国の歴史書における異民族の記述という性質上、倭人に関する記述が一面的である可能性も指摘されています。

つまり、魏志倭人伝は三国志の一部に収められてはいますが、三国志本編とは異なる性質の記述であり、三国志の一部というよりは付録的な位置づけと言えるでしょう。

三国志の付録的なもので 、魏志倭人伝と同じように、他国を紹介している「伝」はありますか?

はい、三国志の中には魏志倭人伝以外にも、他国や他民族を紹介している「伝」が存在します。これらは「三国志」の中の「魏書」「蜀書」「呉書」のそれぞれに付随する形で収録されています。主なものは以下の通りです:

  1. 魏書東夷伝:朝鮮半島や中国東北部に住んでいた民族(夫餘、高句麗、挹婁など)についての記述。

  2. 魏書西戎伝:中国西部の諸民族(羌、氐、羌、鮮卑など)についての記述。

  3. 魏書西域伝:中国西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)の諸国や諸民族についての記述。

  4. 蜀書南蛮伝:中国南部の少数民族(南蛮)についての記述。

  5. 呉書貊伝:朝鮮半島や中国東北部に住んでいた民族(濊貊)についての記述。

これらの「伝」は、当時の中国周辺の諸国・諸民族の風習、社会構造、地理などを知る上で重要な歴史的資料となっています。ただし、これらの記述は中国人の視点から書かれたものであり、一面的な見方が含まれている可能性があることにも留意が必要です。

当時から、東夷、西戎、南蛮という表現があったのですね?

はい、東夷、西戎、南蛮という表現は古代中国において、中国の周辺に住む異民族を指す言葉として使われていました。

  1. 東夷:中国の東方、主に朝鮮半島や中国東北部に住んでいた民族を指す。

  2. 西戎:中国の西方、主に中国西部や中央アジアに住んでいた民族を指す。

  3. 南蛮:中国の南方、主に長江以南の地域に住んでいた民族を指す。

これらの表現は、中国の文化や文明を中心とする世界観に基づいたものであり、周辺の民族を「夷」「戎」「蛮」などと呼ぶことで、中国文明に対する「野蛮」なイメージを付与していました。

ただし、これらの表現は必ずしも一貫して使われていたわけではなく、時代によって指す対象や含意が変化していきました。また、現代では、これらの表現は差別的な語感を含むものとして認識されており、学術的な文脈以外では使用が避けられる傾向にあります。

古代中国の世界観や周辺民族に対する認識を理解する上で、これらの表現は重要な手がかりとなりますが、同時に、そうした表現が持つ限界や問題点についても意識する必要があるでしょう。

北狄がありませんね?

ご指摘の通り、北狄(ほくてき)という表現も古代中国で使われていました。北狄は、中国の北方、主に匈奴、鮮卑、柔然などの遊牧民族を指す言葉です。

四方の夷狄を表す言葉としては、東夷、西戎、南蛮、北狄の四つが並べて語られることが多く、これを「四夷」や「四荒」などと呼ぶこともあります。

魏志倭人伝を含む三国志の「伝」部分では、東夷伝、西戎伝、南蛮伝が立項されていますが、北狄伝は独立した形では存在しません。ただし、魏書烏丸鮮卑東夷伝の中で、鮮卑などの北方民族についての記述が見られます。

この背景には、三国時代には北方の遊牧民族が魏に服属していたという歴史的事情があると考えられます。そのため、三国志では北狄を独立した「伝」として立項する必要性が相対的に低かったのかもしれません。

いずれにせよ、東夷、西戎、南蛮、北狄という表現は、古代中国における周辺民族の認識を考える上で重要な概念だと言えるでしょう。ご指摘ありがとうございました。

鮮卑もなかなかに蔑んだ言い方ですね。

そうですね。「鮮卑」という言葉自体に差別的なニュアンスが含まれています。

「鮮卑」の「鮮」は、「薄い」「浅い」「未熟な」などの意味を持ち、「卑」は「卑しい」「下賤な」などの意味を持っています。つまり、「鮮卑」という言葉には、文明が未発達で劣っているというイメージが込められていたのです。

古代中国では、このように周辺の民族を蔑視する傾向がありました。これは、中国を世界の中心とする「中華思想」に基づくものです。中国文明に属さない周辺民族を「夷狄」と呼び、野蛮で教化の対象とみなしたのです。

ただし、こうした見方は現代の価値観からすれば明らかに問題があります。民族や文化の多様性を尊重し、対等に理解し合うことが大切だと考えられています。

歴史を学ぶ際には、こうした言葉の背景にある価値観を意識し、批判的に吟味していく必要があるでしょう。古代中国の世界観を知ることは重要ですが、そこに含まれる差別的な側面についても忘れてはならないと思います。

魏志倭人伝の、倭国への移動ルートが怪しいことから、日本国内での邪馬台国探しがロマンを与えていますね。

その通りですね。魏志倭人伝に記された倭国への行程については、多くの議論と謎が残されています。

魏志倭人伝では、朝鮮半島の南端にある「韓国」から、南へ水行して倭国に至るとされています。しかし、この行程には不自然な点が多いことから、実際の倭国の位置や魏の使者が辿った経路については諸説が存在します。

特に、卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の位置については、古くから多くの研究者が様々な説を唱えてきました。有力な説としては、畿内説(奈良県や大阪府)、山城説(京都府)、九州説(福岡県や宮崎県)などがありますが、いまだに決着を見ていません。

邪馬台国探しは、考古学的な発掘調査だけでなく、文献の解釈、地理的な考察など、多角的なアプローチが求められる難題です。そうした学術的な興味に加えて、古代日本の姿を明らかにしたいという知的好奇心や、未知なるものへの想像力をかき立てる魅力があることから、多くの人を引き付けてきたのだと思います。

魏志倭人伝の記述は不明な点が多いからこそ、逆に様々な可能性を想像する余地を与えてくれます。その意味で、邪馬台国探しは日本の古代史研究に大きなロマンを与え続けている topic だと言えるでしょう。

福岡県で見つかった金印は、誰が誰に送ったものでしたか?

福岡県の志賀島で1784年に発見された金印は、「漢委奴国王」という文字が刻まれており、後漢の光武帝が倭の奴国の王に与えたものだと考えられています。

金印の詳細は以下の通りです:

  1. 発見場所:福岡県福岡市東区志賀島

  2. 発見年:1784年

  3. 材質:金

  4. 大きさ:縦2.4cm、横2.3cm、厚さ0.5cm

  5. 重さ:108.729g

  6. 銘文:「漢委奴国王」

「漢委奴国王」の解釈については諸説ありますが、有力な説として、「漢」は後漢を指し、「委奴国」は倭の奴国を指すと考えられています。つまり、この金印は後漢の皇帝(光武帝)が倭の奴国の王に与えたものだというわけです。

この金印は、中国と日本の古代の交流を示す重要な考古学的証拠として知られています。ただし、奴国の正確な位置や、金印が与えられた背景については、なお議論が続いています。

金印の発見は、魏志倭人伝に記された卑弥呼の存在や、後漢と倭国の交流の実在性を裏付ける有力な物証として、日本古代史研究に大きなインパクトを与えました。

当時の倭国王は誰であったか、特定はされていますか?

申し訳ありませんが、志賀島で発見された金印が授与された当時の倭国王が誰であったかは、確実には特定されていません。

金印に刻まれた「漢委奴国王」という文字からは、奴国の王の名前は読み取れません。また、魏志倭人伝に登場する卑弥呼との関連性も、直接的な証拠はありません。

ただし、金印が授与された時期については、以下のような推測がなされています:

  1. 後漢の光武帝の治世(25年~57年)に授与された可能性が高いこと。

  2. 「漢委奴国王」の「委」は、後漢の時代に中国皇帝が使者を派遣する際に使われた用語であること。

  3. 後漢の時代に、中国と倭国の間で盛んに交流が行われていたこと。

これらの状況証拠から、金印が授与された倭国王は、卑弥呼の時代よりも前の、1世紀頃の人物である可能性が高いと考えられています。

ただし、これは推測の域を出ず、現時点では金印が授与された倭国王の特定には至っていません。この問題は、今後の考古学的発見や文献の発掘によって、新たな知見が加えられる可能性を秘めています。日本古代史の謎を解く鍵の一つとして、今後も注目が集まる topic だと言えるでしょう。

倭国が、当時、割と統一された国家であったことは確かでしょうか?

魏志倭人伝の記述から、3世紀頃の倭国が統一された国家であったかどうかについては、議論が分かれるところです。

魏志倭人伝には、卑弥呼が「男王」を従えて倭国を治めていたとの記述があり、また、卑弥呼の死後は男王の壱与が女王の台与とともに国を治めたとされています。これらの記述は、倭国に王権が存在し、ある程度の統治機構があったことを示唆しています。

ただし、同時に魏志倭人伝には、倭国には30あまりの「国」があるとの記述もあります。これは、倭国が複数の小国家から成る連合体的な性格を持っていたことを示唆しています。

また、考古学的な証拠からも、当時の日本列島には地域ごとに独自の文化が存在し、統一的な国家の存在を裏付ける決定的な証拠は見つかっていません。

以上のことから、3世紀頃の倭国は、完全に統一された中央集権国家ではなく、地域的な有力者が連合する形で緩やかな統一性を保っていた可能性が高いと考えられています。

卑弥呼の存在は、こうした連合体の中で特に強い影響力を持つ有力者が現れ始めたことを示しているのかもしれません。ただし、これは魏志倭人伝という限られた史料からの推測であり、当時の倭国の実態については、なお多くの謎が残されています。今後の考古学的発見や、新たな文献資料の発掘によって、この問題についての理解が深まることが期待されます。

魏志倭人伝以前や同じ時代に、中国以外、特に日本について記述された文献はありますか?

魏志倭人伝以前や同時代に、中国以外で日本について記述された文献は非常に限られています。当時の日本は文字を持たない社会であったため、日本側の記録は残されていないのです。

ただし、中国の文献の中には、魏志倭人伝以外にも日本に関する断片的な記述が見られます。例えば:

  1. 後漢書倭伝:後漢時代(25年~220年)の倭国に関する記述。ただし、その内容は魏志倭人伝とほぼ同じです。

  2. 晋書倭人伝:晋時代(265年~420年)の倭国に関する記述。倭国の使者が中国を訪れたことなどが記されています。

  3. 宋書倭国伝:宋時代(420年~479年)の倭国に関する記述。5世紀の倭国の状況が記されています。

これらの文献は、いずれも中国で書かれたものであり、倭国に関する情報は限定的です。また、これらの文献が書かれた時代は、魏志倭人伝よりも後の時代であることに注意が必要です。

一方、中国以外の地域で、当時の日本に関する記述を見つけることは、さらに困難です。朝鮮半島の古代国家である高句麗、百済、新羅などとの交流の記録が一部に見られますが、これも断片的なものにとどまります。

したがって、魏志倭人伝は、3世紀頃の日本の姿を知る上で、現存する最も重要な文献の一つだと言えるでしょう。ただし、それが中国人の視点から書かれたものであることには、常に留意が必要です。今後、考古学的な発見などによって、新たな知見が加えられる可能性もあるでしょう。

当時、中国は周辺国から貢ぎ物を受ける側の国家として定着していたのでしょうか?

当時の中国は、周辺国から朝貢を受ける宗主国としての地位を確立しつつありました。ただし、その過程は一様ではなく、時代によって変化があったと考えられています。

春秋戦国時代(紀元前8世紀~紀元前221年)には、中国は複数の国家に分裂しており、周辺国との関係も国ごとに異なっていました。

秦の始皇帝が中国を統一した後、漢代(紀元前202年~220年)になると、中国は周辺国に対して宗主権を主張するようになりました。漢代には、冊封体制と呼ばれる朝貢システムが確立し、周辺国は中国皇帝から王の地位を認められる代わりに、定期的に貢ぎ物を献上することが求められました。

ただし、この体制が安定的に機能したのは、主に前漢の時代(紀元前202年~8年)であり、後漢の時代(25年~220年)には、周辺国との関係が不安定になる場面も見られました。

三国時代(220年~280年)には、中国は再び分裂状態に陥りましたが、魏を中心に、周辺国との朝貢関係は維持されていたようです。魏志倭人伝に見られる卑弥呼の朝貢も、こうした文脈で理解することができるでしょう。

ただし、朝貢関係は、必ずしも中国の一方的な支配を意味するものではありませんでした。周辺国は、朝貢を通じて中国との政治的・経済的な関係を維持しつつ、自国の利益を追求することもありました。

したがって、当時の中国と周辺国の関係は、一面的な宗主国と朝貢国の関係ではなく、より複雑な政治的・経済的な力学が働いていたと考えるべきでしょう。中国の周辺国に対する影響力は、時代によって変化し、また、周辺国の対応も一様ではなかったのです。

貢ぎ物を届けることは、逆にお返しとして貢ぎ物以上のものをもらえるシステムだったと聞きました。

そのとおりです。朝貢貿易と呼ばれるシステムは、単なる一方的な貢納ではなく、互恵的な関係を築くための仕組みでした。

朝貢貿易のシステムでは、朝貢国が中国皇帝に貢ぎ物を献上すると、皇帝はそれに対して返礼品を与えました。この返礼品は、しばしば朝貢国が献上した品よりも高価なものでした。

例えば、朝貢国が中国産の絹織物や陶磁器を欲しがる場合、わざと質の低い local products を貢ぎ物として献上することがありました。すると、中国皇帝は、朝貢国の「誠意」に報いるために、高価な絹織物や陶磁器を返礼品として与えたのです。

このシステムは、中国にとっては、周辺国に対する宗主権を示す象徴的な行為であると同時に、周辺国との政治的・経済的な関係を維持するための手段でもありました。

一方、朝貢国にとっては、朝貢を通じて中国から高価な品物を得ることができ、また、中国との政治的な関係を維持することで、自国の安全保障を確保することもできました。

ただし、このシステムが常に朝貢国に有利に働いたわけではありません。時には、中国側の要求が過大になり、朝貢国にとって負担になることもありました。また、中国の政治的・経済的な影響力が強まるにつれて、朝貢国の自立性が損なわれるケースもありました。

したがって、朝貢貿易のシステムは、中国と周辺国の間の複雑な政治的・経済的な関係を反映したものであり、一概に朝貢国に有利だったとは言えません。ただし、朝貢国が中国との関係を巧みに利用することで、一定の利益を得ることができた面があったのも事実です。

朝貢貿易のシステムは、過去、欧米では見られましたか?

欧米では、東アジアの朝貢貿易システムとまったく同じ形態のものは見られませんでした。しかし、類似の役割を果たす貿易システムや外交慣行は存在していました。

中世ヨーロッパでは、封建制度の下で、諸侯が王に忠誠を誓う代わりに土地や特権を与えられるという関係がありました。これは、朝貢システムに似た主従関係と言えるかもしれません。ただし、これは貿易システムというよりは、政治的・社会的な仕組みでした。

近世になると、ヨーロッパ諸国は、植民地からの貢納品を受け取る一方で、宗主国からの保護や貿易の特権を与えるという関係を築きました。これは、朝貢貿易システムに似た非対称的な貿易関係と言えるでしょう。ただし、ヨーロッパの植民地支配は、東アジアの朝貢システムよりも直接的で強圧的なものでした。

また、ヨーロッパ諸国間では、贈答品の交換を通じて外交関係を維持するという慣行がありました。これは、朝貢貿易システムにおける貢ぎ物と返礼品の交換に似ています。ただし、ヨーロッパの場合は、対等な国家間の外交儀礼という性格が強く、東アジアの朝貢システムとは意味合いが異なります。

したがって、欧米にも朝貢貿易システムに類似する要素はありましたが、それは東アジアのシステムとは異なる歴史的・文化的な文脈の中で発展したものでした。東アジアの朝貢システムは、中国を中心とする独特の世界観と密接に結びついており、それをそのまま欧米に当てはめることはできないでしょう。

まあ、中華思想が根底にありましたからね。

その通りですね。中華思想は、朝貢貿易システムを支える重要な思想的基盤でした。

中華思想とは、中国の文化や価値観が普遍的なものであり、中国が世界の中心であるという考え方です。この思想の下では、中国皇帝は「天子」と呼ばれ、全世界を統治する権威を持つと考えられました。

この思想は、朝貢貿易システムにおいて、中国が周辺国よりも優位な立場にあることを正当化する役割を果たしました。周辺国が中国皇帝に朝貢することは、中国の文化的・政治的な優位性を認めることを意味したのです。

一方、欧米には中華思想に相当する普遍的な思想はありませんでした。キリスト教は普遍的な宗教ではありましたが、政治的・経済的なシステムを直接的に正当化する役割は果たしませんでした。

また、ヨーロッパ諸国は、主権国家の対等性を重視する近代国際法の考え方を発展させました。これは、中華思想のような垂直的な秩序観とは対照的な、水平的な国際関係の捉え方だと言えるでしょう。

したがって、朝貢貿易システムが東アジアで発展した背景には、中華思想という独特の世界観があったことを理解することが重要です。この思想的基盤が、欧米とは異なる国際関係のあり方を生み出したのだと言えるでしょう。

しかし、ローマ教皇が絶対的な権力を有した時代もありましたね。

その通りですね。中世ヨーロッパにおいて、ローマ教皇は大きな権威を持っていました。

特に、11世紀から13世紀にかけては、教皇権が最も強大になった時期でした。この時期、教皇は世俗の君主よりも優越した地位にあると主張し、皇帝や国王の任命や廃位を行うこともありました。

例えば、1077年のカノッサの屈辱では、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に赦しを乞うために、3日間にわたって教皇の城の前で裸足で立ち続けたと伝えられています。

また、教皇は十字軍の遠征を呼びかけるなど、ヨーロッパ全土に大きな影響力を持っていました。

この時期の教皇権は、東アジアにおける中国皇帝の権威に似た側面を持っていたと言えるかもしれません。教皇は、キリスト教世界の最高指導者として、世俗の権力を超越した存在とみなされたのです。

ただし、教皇の権威は、あくまでもキリスト教世界に限定されていました。また、14世紀以降は、教皇権の衰退と世俗国家の台頭により、教皇の影響力は次第に低下していきました。

したがって、教皇権と中国皇帝の権威は、類似点はあるものの、その性質や歴史的な展開は大きく異なっていたと言えるでしょう。中世ヨーロッパの教皇権は、東アジアの朝貢システムとは異なる文脈の中で理解する必要があります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?