完全な自由とは完全な不自由であるということ。
ミヒャル・エンデという名前にぴんと来なくても、映画ネバーエンディングストーリーの原作やモモと聞けば知っている人も多いのではないでしょうか。
ミヒャエル・エンデさんはドイツの児童文学作家です。
一見、子ども向けのお話に見えますが、たとえば『モモ』は大人でも楽しめる(というより大人になるにつれて奥深さの分かる)寓話です。
そんな彼の作品の一つに『自由の牢獄』というものがあります。
今日のタイトルはその一節から引いてみました。
このお話を簡単にまとめますと、ある若い男性の商人が悪魔の化身である女性に誘惑され、巨大な円形の部屋に閉じ込められてしまいます。
この部屋には時間という概念が無くて、さらに彼の周りをぐるっと111個の扉が囲んでいます。この数字は注釈によるとオリエント数字学で狂気の数字とされ、男性は扉を数えてここが狂気の場所だと知り恐怖に慄きます。
この扉の向こうはいろんな場所に通じています。いわばどこでもドアですね。
男性が部屋の真ん中にあるベッドで横になり思案に暮れていると、姿なき悪魔の声が扉を選択するように囁きます。
悪魔の説明によれば、ある扉の向こうには血に飢えたライオンが待ち受けていたり、またある扉の向こうには財宝があったり、大きな穴が開いていたり、食人鬼がいたりと、その先にはいい結果もあれば、悪い結果もあるらしい。
また扉には鍵がかかってはいませんが、何か一つの扉を選んだ途端に他の扉は全て永遠に閉じられ、選び直すことはできません。
男の頭の中には様々な迷いが生まれます。
なぜなら、自分の選択した扉の先が最悪の選択であるかもしれないという不安に苛まれるからです。
ここまで読んだあなたなら、これが自由について書かれた寓話であることが分かると思います。
僕はゲームが好きなのですが、子どもの頃は親の目を盗んでしか遊ばせてもらえませんでした。もちろんゲームソフトもなかなか買ってはもらえません。
つまり、親という束縛があって自由にはゲームができませんでした。
しかし、大学生にもなるとその束縛からも徐々に解放されていきます。
学生には時間も潤沢にあります。
ところが、皮肉なもので自由になる時間がたくさんあればあるほど、逆に子どもの頃ほどゲームに集中できなくなりました。
何をしてもいいという自由は、束縛が無くなった時、選択を決断しなければならなくなります。有名なジャム実験と同じです。
マリオ64というゲームが出た時、僕は夢中になって遊びました。
これまでのマリオというのは2Dスクロールアクションと呼ばれ、Bボタンで助走する距離によって着地点が変わるものの、突き詰めて言えば右から左へ移動するだけのゲームでした。
しかし、全てがポリゴン技術によって立体化した世界は360度あらゆる場所へ移動することが可能になり、格段に自由度が上がりました。
Dの食卓やエネミーゼロで有名なゲームデザイナーで若くして亡くなった飯野賢治さんが当時マリオの産みの親である宮本茂さんと対談していたのですが、
その中で彼が宮本さんにマリオ64には今までのマリオのようなライフ制度などいらないんじゃないですか?と聞いたことがあります。
いわゆるもう一機というシステムよりも、たとえば広い野原にバットやボールを並べておいて、後はプレイヤーの自由に遊ばせるだけでいいと。
事実、マリオ64をプレイした誰もが、スタート直後、ただその辺のフィールドを走り回っているだけで楽しい気分に浸れたのです。
山の周りを取り巻く螺旋状の坂道を駆け上がってもいいし、崖に背を向けてバク転するだけでショートカットができたり、大砲の中に入りこんで頂上へひとっ飛びなんてこともできて、僕らが妄想の中で思い描いたマリオのアクションが実現したのです。
今でこそオープンワールドなんて当たり前ですが、当時のゲーム業界に衝撃を与えるほどの作品で、64ハードの牽引力になったことは言うまでもありません。
しかし、ここで宮本さんはゲームにはある程度のルールが必要だと主張しました。
任天堂の歴史を語る時、決して外せない人がいます。
横井軍平さんです。数々のヒット作を飛ばし、枯れた技術の水平思考でも有名な発明家です。グンペイというパズルゲームの名前としても残っていますね。
もう一人、外せない人物がいます。
社長自らが「直接ッ!」というパフォーマンスを交えながら素敵なプレゼンテーションを繰り広げた岩田聡さんもまた外せません。
お二人とももうこの世におられないなんて寂しい限りですが、この岩田さんが名作バルーンファイトをプログラムしてパイロット版を作り上げた時に、横井さんがテストプレイをしていくつかのアドバイスをしたところ、作品の面白さが段違いに上がったという逸話があります。
ファミコンと言えば、制約の多いハードです。
今のように無限とも言える大容量で、プログラムの修正も後からネットで修正できる時代ではありません。
ドラクエの作曲家であるすぎやまこういち先生(あぁ、この方もまたもういないのか)は限られた音色を組み合わせて素晴らしい名曲を遺しました。
その他の名作ソフトもまた奇抜なアイデアで記憶に残る作品を数々産み出しました。
もしも、マリオ64にライフが無かったら、ゴールも無ければ、果たすべきミッションも無かったら、プレイヤーは自分たちで目標を模索しなければいけません。
そうです、あまりにも自由でありすぎることが不自由へと変わるのです。
たとえばマインクラフトというゲームにはクリエイティブモードがありますね。素材も使い放題で、まるでレゴブロックのように地形を弄って、いろんな建造物を造ることができます。
でも、あまりにも自由すぎて何をしていいか苦手な人もいると思います。
同じようなサンドボックスゲームなら、
ドラクエビルダーズのような、少しずつスモールゴールが提示されるミッションクリア型の方が好みだという人もいるでしょう。
ただの殴り合いの喧嘩もルールがあれば格闘技へと変わります。束縛があってこそ自由を感じる。逆説的ですよね。
選択には迷いがつきまといます。
さとうみつろうさんの『神さまとのおしゃべり』には、
悩みとは選択肢のことだという説明があります。
なぜなら、何かを選ぶのに迷うということは選択肢が一つではないからです。もしも選択肢が一つだけしか無かったとしたら、あなたはそれを選ぶしかありません。
おそらく選んだという認識も後で生まれるのではないでしょうか?
あの時、あちらの道を選んでいたらと後悔した時に自分が進んできた道を知る。
『自由の牢獄』に話を戻しますと、男性の迷いが消えた時、扉の数は減り、やがて無くなります。このお話はイスラム教の寓話なので、その時に彼は神の思し召しを知るということになるのですが。
実はこのお話を僕が知ったのは、受験生時代に買った『MD現代文・小論文』という現代文に頻出するキーワードを集めた小型の辞書です。
この本の冒頭に大澤さんという方が書かれた『もうひとつの<自由>』という学生向けに書かれた自由への考察の中でこの作品が紹介されていました。
あまりにも自由であるー自由の制限が無くなった時にこそ、我々はむしろいちばん閉塞感を覚えるという解説があの時以来、僕の心から離れることはない素敵な考察でした。
長くなってしまいましたが、もう少しだけ続けます。
『ものの見方が変わる座右の寓話』という本があります。
この本には文字通り、いろんな寓話が紹介されています。
今日はその中で『吊るされた愚か者』というお話を紹介したいと思います。
ある罪人が王様の前に連れて来られます。
王様は罪人に二つの選択肢を提示します。
一つは絞首刑。もう一つは黒い扉の向こうで刑を受けること。
どちらかを選べと迫ります。
罪人は、どんな残酷な刑罰が待っているのか分からない黒い扉よりも、絞首刑を選択します。
しかし、刑が執行される直前、罪人は王様に扉の向こう側に何があるのか最後の質問をします。
王様は笑みを浮かべながら、大半の罪人が絞首刑を選ぶと説明し、懇願する罪人に向けておもむろに口を開きます。
「自由だよ。自由。」
扉の向こうにあるのは、自由だったのです。
この寓話は既知と未知という問題を扱っています。多くの罪人が扉の向こうの未知の世界よりも具体的な刑罰を選んでしまい、せっかくの自由を失ってしまう。
自由とは未知の選択です。
これまで束縛されていた環境から抜け出た時、まだ見ぬ未来の選択肢が無数に広がっています。
もちろん、中には今まで経験した選択肢も含まれていることでしょう。
しかし、既知の選択をして安心を得ると、なかなか元の環境から抜けることはできないものです。
起業しようか迷った時、結婚して家庭を持とうか迷った時、そこには選択肢が存在します。
その選択肢が多ければ多いほど、どれを選んでいいか人は不安に陥ります。
しかし、それこそが自由であり、自分の選択に責任を持つということなのです。
誰かが選択したものに従っている時に感じた自由というものは本当の自由ではありません。今回紹介したお話はそんなことを教えてくれます。
寓話って面白いと思いませんか?
もしも気になったら、ぜひ手にとって読んでみてくださいね。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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