それでも生きてく、そして生きてる、僕と僕たち。
今日はどうしても暗いトーンになってしまうのですが、お時間がございましたら少しお付き合いくださいね。
ほんの数日前、職場の方が47歳の若さで亡くなられました。
若い人から見れば、それなりの年齢に見えるかもしれないけれど、その方には奥さまと子どもがいて、出世頭で、はっきり言って、まだまだこれから人生があり、息子さんや娘さんが大人になって、家庭を持つ姿も夢見ただろうし、退職したら趣味の釣りでものんびり楽しもうとしてたのではないかと思います。
異動されて、ずいぶん会っていないのですが、久しぶりに出張で関西に来られて挨拶した時も、童顔で、穏やかで優しい表情の彼は、学生っぽさがまだ抜けきらない新入社員だったあの頃のままのイメージでした。
僕の周りで亡くなった人と言えば、ずいぶん前におじいちゃん。そして、高校の同級生が20代前半で何人か。
あとは職場で一緒に働いた別の会社の方が数名。亡くなられた清掃のおばちゃんもいらっしゃいます。そうやって思い返すと、あまり接点が無かったとは言え、年齢の近い、しかもご家庭もあって、若くして役職の上の方に行く、順風満帆に見えた彼が、もうこの世にいないのかと思うと不思議で、残念で、寿退職した同期の奥さまも知ってるだけに不憫でなりません。
彼の人生はどういったものだったんだろうと、毎日ふと答えの出ないことを考えてしまいます。
僕から見れば羨ましい限りの人生だけど、それは局面でしかないだろうし、きっと人には言えない仕事の重圧もあって、体調を崩されたのではないかと思います。
僕は、と言えば、特に人に語れるような経歴は無く、無駄に意識が高いばかりで、大した努力もせず、いつしか歳を取ってしまって、人生を諦め、これまで惰性で生きて来ました。
ただ最近は、noteにこうして文章を書いたり、YouTubeの動画を作ってみたり、音声配信をしてみたり、と相変わらず中途半端ながら、何もしないでゲームや読書で時間を潰していた以前の自分よりは、いくぶんかマシになりました。
だってもしnoteを始めなかったら、こんなにたくさんの人に見られる事は無かったし、
ゲーム実況だって、ふだんは100回も行かないくらいなのに、まぐれでこんな事も起きたし、
すっかり休んでる書籍紹介だって、いつの間にか視聴回数が増えてるし、当たり前だけど、最初は誰も見てなかったわけで。
少しは誰かの役に立ってるのかな、なんてね。
でもだからと言って、人に言えるほど何かがあるわけでもないので、一生をかけられるモノを持ってる人は本当にスゴイなぁと思います。
若い頃の僕は、すぐに思ったことを口に出し、冷たい態度を取られたら、相手に冷たく返すのが当たり前でした。
もちろん今だって、感情的になる性格はそう変わらないのですが、努めて穏やかに、自分の至らないところは反省するよう心がけています。歳の数だけ苦い経験をしてると言えば、美化しすぎですが。
とても当たり前だけど、人はいつか亡くなってしまうんですよね。
でも、ついそれを忘れてしまいます。
相手には相手の事情があり、一人一人に人生があり、機嫌がいい時もあれば、悪い時もある。
だけど、人は他の人のステキな佇まいを見て学びます。憎しみに憎しみを返すと、憎しみしか返って来ないけど、優しさは優しさを携えてきます。
僕は優しい人ほど、たくさん後悔をしてきた人だと思います。
だから、僕はこれからも後悔をたくさんしないと優しい人にはなれないでしょう。
僕には何も無いけれど、見方を変えれば、特に大きな病気も無く、誰かにとんでもない迷惑をかけたわけでもなく、悪いことをして捕まったこともありません。
誰かと幸せを分かち合ったりはしてないけれど、案外、誰かから見れば幸せなのかもしれない。自分では幸せだとは思えないけれど、じゃあ不幸なのかと言われれば不幸と言えるような不幸は無い。
時々、ふと東日本大震災のYahooニュースを思い出すことがあります。
それはたった一行の短いニュースでした。
家族を津波にさらわれた男性が自殺したというだけの、ホントに素っ気ない文面でした。
それまで僕は自殺は絶対に良くないものだと思っていました。
でも、このニュースを見た時、確かまだ30代くらいだったと思いますが、その男性が自ら命を絶ったことはとても責めることではないなと思いました。
短い文章からは窺い知れない、とてつもなく重いものを感じました。その人の人生を、そしてこれからどんな思いで生きていこうとし、結局は死を選んだのかを。
僕は未だに、まだ生きている奇跡を、ただ生きているということがどれほど貴重なことであるかを分かっていません。
死は誰にでも訪れます。それは年齢に関係なく、人によってはある日突然に。
でも、今あなたがこれを読んでいるということは生きているのです。
生きてるって何でしょうね?
楽しいって何だろう?
でもそうだな、少なくとも僕は誰かに恨まれたくはない。嫌われることはあったとしても、恨まれるようなことだけはしたくないし、仮に恨まれたとしたら、僕はその人にそれだけのことをしたのだから、恨むよりもまずは自分が人としてどうであったかを問いただした上で、謝ることは謝り、許すことは許し、禍根は断たないといけないと思います。
だって笑顔の人ってステキじゃないですか?心から笑ってる時、人は辛いことを忘れます、たとえ一時ではあっても。
合わない人はいます。どうやったって今さら仲良くなれない人だっています。でも、その人にも仲のいい人はいて、優しい一面もあります。
合わない人は、そっと互いに離れればいい。離れると、その人の意外な一面を知ることもできます。
そして、自分も、相手も、人は良きにつけ悪しきにつけ変わっていきます。自分に対しては変わらないかもしれないけど、誰かには笑顔を見せているのです。
今では疎遠になった人でも、楽しかった時のことばかり思い出しますし、そこにいる僕たちはいつも笑顔です。
だからこそ、人生楽しく、笑顔で過ごさないともったいない。だっていつか終わるのだから。
先日、テレビで志村けんさんの番組を見ました。笑わされました。もう何度も見たはずの決まりきったコントなのに、僕はやっぱり笑ってしまいました。
そして、ああすごいなぁ。きっと絶対間違いなく辛いことや悲しいこともあるのに、亡くなったことさえ忘れさせてしまうくらい爆笑の渦に巻き込む、芸人さんって本当にスゴイなぁと思いました。テレビで見るたびに僕の中に志村さんは生きていて、これからも僕を楽しい気分にさせてくれる。
楽しいってスゴイ!
生きてると実感するには楽しくなきゃダメなんだ。
楽しいことは、みんな違う。でも笑顔があるところには楽しさがあります。
そんなこと分かっていたはずなのに、分かっているはずなのに、誰かの死に直面するたびに気づき、そして忘れてしまいます。
人のことを羨んでいるということは、自分の人生を生きていないのと同じ。
誰かの生き方に憧れるのはいいかもしれないけど、まずは自分の人生をちゃんと生きないと楽しさはやって来ない。
自分を一番見ているのは自分。
ダメな自分を誰よりも知っているのも自分。
誰かに認められたいとか、お金とか、権力とか、名声とか、そんな上辺ばかりを追い求めるほどに僕はもう若くはない。
自分の能力は自分がよく知っている。
今さらとんでもない成功があるなんて夢を見るには、あまりに過去の積み重ねが無い。
でもね、でもさ、それでも僕は生きていて、こうして帰宅途中の電車の中でスマホ片手に自分と誰かに向けて文章を書いている。
参考書を熱心に読んでいる学生もいれば、何かの会話で盛り上がってる若者がいる。かと思えば、元気な子どもを連れた若いお母さんや、酔っ払ったおじさん達がまた会いましょうねと互いの肩を叩き合う光景に出くわすこともある。
みんな何かを抱えて生きている。
マスクで表情は見えなくても、みんなそれを知っている。
仕事を終えて、やりたい事が頭に浮かんでも、お風呂に入って、ご飯を食べるとやる気がなくなる。
きっとみんなもそうだろう。
誰かを笑顔にし、笑顔で返せる人はとても幸せな一日だと思う。笑顔で寝られる日はそれくらいステキだ。
僕は相変わらず怠け者で、何も成し遂げてはいないけど、誰かが微笑んでくれたり、ありがとうと言われるようなことができるといいなと思う。もし誰かが僕のことを思い出す時は、一緒に笑顔であった僕でいて欲しい。
今までが今までだから、急には変われないだろうけど、それでも僕は生きていて、生きていく。生きている限り、自分のために、誰かのために生きていないと生きている証がないし、楽しくもない。
生きてるってさ、何かをどこかに、誰かに残すことなんじゃないかな。
なぜ今日僕はとりとめもなく、こんなことを書いたのだろう。でも書かずにはいられなかった。書くことで僕は僕の今の気持ちを残し、これを読んでいるあなたに僕が生きていることを知ってもらって、ついでにこれからも怠けそうになる僕をたまに見られてるんだと思うことで、僕は僕でありながら、誰かの僕であり、互いに背中をそっとなでるような関係でありたい。
だから、普段はどこかで会っていたとしても、すれ違いの僕らだけど、noteで会うみなさんは知り合いです。
今日も本当にお疲れ様でした。体と心のバランスを大切になさって下さいね。あなたを思う誰かのためにも。
最後まで読んで頂きありがとうございました。また会いましょうね。
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