今日の電車 6両目
私は今困っている。
一瞬、しまったと思ったのだ。
しかし、思った時にはすでに遅い。
コートの裾が隣の女性のお尻の下に挟まれている。
これが私と同じおじさんだったら、何のためらいもなくコートを引っ張り自分の陣地へ持ち込むだろう。綱引きの主導権はこちらにあるのだ。
しかし、今は彼女のターンである。
一体彼女はどの駅で降りるのだろうか?
私の降りる駅までにこの問題は解決するのだろうか。
もちろん、当の本人はスマホの画面に夢中である。まさか隣のおじさんが変な妄想をしているとは夢にも思わないに違いない。実に誤解を生む表現だ。
私もスマホを見ているのだが、考えだすと気が散って画面に集中できない。
何か他の事を考えなければ。
そうだ。
女性と言えばこんな体験があった。
誰もいない終電。正確には私と若い女性が車内にいた。
私は残業の帰りでかなり疲れていて、うとうとしながら寝過ごさないようにかろうじて意識を保っていた。
そんな時、何かが落ちる音が聞こえた。
見ると向かいの席の女性がカギを落としていた。
何かのキーホルダーをつけたそのカギは暗い照明を少しだけ照り返し、私の視界に収まっている。
教えてあげようと思った。しかし、眠気に誘われている体が行動を制限した。
カギを拾ったらどうなるだろう?
ふとそんな事を考えた。
もし私がそのカギを拾って、彼女の後をつけたら・・・。
いけない。
私は何を考えているのだろう。
しかし、否定した途端、邪な気持ちが心に浮上する。
私はそこから、カギを拾ったらどうなるかというテーマで疲れた頭を動かし始めた。
しばらくして、彼女が席を立った。
どうしよう?
そう思った瞬間、足元に違和感を感じた彼女はカギの存在に気づき、私よりも前の駅で降りた。
私は、自分の中のイケナイ妄想が現実とならなかった事に安堵した。
もしあの時、私が行動に移していたらきっとろくな人生を送らなかったに違いない。
ここまで考えた時、体が軽くなった。
解放されたのだ。
隣の席の彼女もまた私よりも前の駅で降りたのだ。
重りを失ったコートの裾は私の心に落し物をした事を知らないまま私に寄り添っていた。
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