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ジレンマの話しかしてない

昨日の話もそうなんですが、我ながら「〜〜のジレンマ」みたいな構造の話が多いなと、ふと思いました。多分、こういうのって、江草の思考の癖というか、思考の嗜好なのでしょうね。

実際、何事もジレンマを把握するのが大事という感覚があります。社会的に大きな問題になることや長年繰り返し議論になること、あるいは人々の人生や人間関係の悩みも、だいたいがジレンマ構造を持ってる印象です。

ずっと浮き上がってくるような難しい問題というのは、つまりスパッとこうすれば解決という策がなく、「こっちを立てればこっちが立たず」というジレンマだからこそ難しい。つまり、人や社会にとって大事なものというのはたいがい複数あって、どちらかを優先しないといけない時に人は悩むし社会は揉めるんですね。(そういう意味ではほんとはジレンマだけでなくトリレンマとかテトラレンマとかに続くわけですが、面倒なので本稿では便宜上「ジレンマ」としてひとまとめにします)

このジレンマを強行的に突破しようとするのが、いわゆる各種の○○至上主義者とか原理主義者です。一つの「大事なもの」だけを見て他は無視することでジレンマを脱しようとする試みですね。ジレンマに陥って身動き取れないことに業を煮やして、ジレンマごと破壊しようとしてる動きだと考えれば、なんとなくカワイイ気さえしてきます。

でもまあ、それだけ「ジレンマの中に居る」というのは人にとってとても居心地が悪いものでもあるのです。だから、至上主義者とか原理主義者ほどでなくとも、誰もが一つの価値観をサクッと優先して進みたい誘惑にかられるものです。わざと一つの側面にだけスポットライトを当てて自身の選択を容易にするわけです。

ただ、それはやっぱり他の大事な物事を見て見ぬふりをすることです。考えた末に捨ててるわけでなく、なんなら、何を捨てたかさえ自分で気付かないまま捨てようとしていると言えます。もっと言えば、捨てたという認識さえないままに捨ててるようなものかもしれません。

そうやって、エイヤとやりたくなる気持ちはもちろん分かるんですけど、そこをあえて「ちゃんと見ようぜ」と、捨てようとしてる箱を拾ってきて中身を開けて見せつけるのが、ジレンマ提示マンの仕業です。気持ち的に、何を捨ててるかも知らないままに捨てるのって嫌なんですよね。
せっかく解決しようとしてたところに話を毎度ややこしくする、とても面倒くさいやつなわけですが、その面倒を引き受けるのが社会や人にとってはやっぱり大事なんじゃないかなあと思うので。

でもって「ジレンマに陥ってる双方のいいとこ取りをしたり新しい第3の道を見い出してアウフヘーベン!」ってノリも嫌いではないのですが、江草の場合はそこまで進歩史観的なわけでもないです。
そうやって積極的にジレンマを解消しようとするのではなく、ただ「ここにジレンマがある」とか「こういうジレンマの構造かあ」とじっくりとジレンマを観察認識することだけで、逆説的ですがジレンマ自体の苦悩は緩和される気がするんですね。ジレンマをジレンマとして把握することだけで何かが変わるんじゃないかと。

あいまいで抽象的な物言いなので分かりにくいとは思うんですけど、多分、これは西洋哲学的というよりは仏教的な発想に近いんじゃないかと。
痛みがある時に痛みから逃れる方法を探そうとするんじゃなくて、痛みそのものをじっくり注意深くマインドフルネス的に観察すると案外痛くなくなってくる。そういう感じで、ジレンマもジレンマの構造をつぶさに観察することでジレンマに伴う息苦しさがかえってなくなってくる気がするんですね。ジレンマは苦しいものですが、まずあえてそのジレンマにじっくり向き合うことで、ジレンマと共にいられるようになる。その時にはすでにそれは元のジレンマではなく自身と一体化してしまっている。こんなイメージです。

まあ、ともかくも、そうやってジレンマをジレンマとして把握することが大事なんじゃないかなという思いでやっています。

世に言う「議論」というのも、何か抜本的な解決策(銀の弾丸,魔法の杖)を探すためのものではなく、ジレンマを整理する役割を果たすためのものだし、それが出来るだけで素晴らしい成果だと思います。もちろん、良い感じの解決策がもたらされるのにこしたことはないのですが、実は解決策が第一義ではなく、ジレンマの整理こそが第一義ではないかと。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。