子どもとクッキー作りした体験から「外注しすぎ問題」を考える
先日、我が子のプーちゃんと初めてクッキー作りを一緒にしました。
プーちゃんはまだ2歳なんですが、親も驚愕するレベルの圧倒的成長に伴って、最近では普通に会話もできるし、手先も器用になってきたので、そろそろ「食べる専」でなく「作る側」も参加できるのではないかと思って試してみました。
すると、ぎこちない手つきながらも、コネコネと一緒に生地を伸ばしてくれたり、型を抜いたりして、クッキー作りを楽しんでくれました。企画は大成功。親としてもホクホクの幸せな気分です。
江草もお菓子作りは久々だったので、今回の企画はクッキー型やデコレーションなどを買い集めるところから始めないといけませんでした。
ここで面白いのが、お店を回ってそうしたクッキーを作るための器具や材料を買い集めてるさなか、店先には当然のように完成した商品としてのクッキーがそこかしこに陳列されていたことです。
変な話、素人(しかも子供まで参加)が自作で作るクッキーよりも、お店で売ってるクッキーの方が形も綺麗だし味も美味しいでしょう。なんなら、改めて調達している製菓グッズ代を鑑みると、自作クッキーよりもすでに完成している市販のクッキーを買う方がよほど安いはずです。
でも、そんな完成しているクッキーたちを尻目に江草はひたすらクッキー自作用の製菓グッズばかりを買い物カゴに放り込んでいました。目の前に完成している美味しいクッキーが売っているのに、それを無視してわざわざ自分で労力をかけてクッキーを作ろうとする。一見すると非合理にも見える買い物行動をしている自分の姿がなかなかシュールで面白かったのです。
つまり、江草があくまでその時買っていたのは「クッキーそのもの」ではなかったんですね。「愛する我が子とクッキーを作る」という体験を買っていたわけです。これから趣味で釣りに向かおうとしている人に「お、魚が欲しいのかい。ほら、魚だよ」といきなり釣果だけを渡しても苦笑されるのと同じです。釣りに行く人は魚が欲しいのではなく、魚釣りがしたいのです。
正直言うと、やっぱり出来上がったクッキーは素人が安物材料で作っただけあって、まあ味はパッとしないものではありました。うれしそうにチョコチップをぶっかけて、焼き上がりを今か今かとオーブンの前で待ちかねて、出来上がったクッキーの山に大興奮していたプーちゃん自身、少し食べたら残してしまいました。クッキーとしてはちょっと残念なクオリティだったと言わざるを得ません。
でも、我々が求めていたのはクッキーそのものではなくって、クッキーを作る体験だったのだから、企画としてはそれでも全然構わないわけです。
ところで、最近の世の中では何でもかんでも外注するのが良いとされます。
自分が不得意なことは得意なプロにやらせればいい。
自分の時給と照らし合わせて割に合わない作業は他人に任せればいい。
自分の成長に繋がらないコスパやタイパが悪い活動なんてやる必要はない。
つまり「自分が得意で高いお金が稼げる物事に集中するのが合理的だ」と、こういう感覚です。
料理や買い物はめんどくさいし割に合わないから、Uberに配達して貰えばいい。家の掃除もハウスキーパーにさせればいい。
だって、自分の時給は高いから、あるいは将来の自分の時給を高めるために今は身を粉にして仕事に打ち込まないといけないから、余計なこと、割に合わないことは外注するのが良いのだと。
なんなら育児も例に漏れず外注の対象となっています。仕事と育児の両立が難しいから、保育園に長時間預けるし、ベビーシッターにだって任せます。
確かにそれは合理的ではあるんだと思います。江草自身、日々、子どもを預けてる身分です。外注に頼ってるし、頼らざるを得ない気持ちは分かります。
ただ、同時にそれって知らず知らずのうちに完成品のクッキーばかりを買ってる人生になってるんじゃないかとも思うんですよ。確かに市販のクッキーは美味しいしコスパもタムパもいいけれど、いきなり完成品が登場するから、そこにはプロセスがない。「愛する我が子と一緒にクッキーを作る」などのストーリー体験が欠如してしまう。
つまり、外注では味わえない何かがやっぱりそこにあると思うんですよね。
それを一見合理的だからといって外注ばかりにしてしまうと、外注にはどうしても含まれ得ない特定の栄養素が欠けた「栄養不足の人生」になってしまうのではないでしょうか。
現代では、「何か面白いことはないか」「楽しいことはないか」「もっと充実感が欲しい」などと、ずっと満たされない気持ちを抱えて生きてらっしゃる方々が少なくないように見受けられます。
当然これは複雑な問題で十把一絡げに語ってしまうことはちょっと乱暴ではあるのですが、でも、もしかすると、その背景にはこうした「外注のしすぎ」があるんじゃないかと思うんです。人生のあれやこれやを外注しすぎて、それで虚無感に陥ってる。そんなトラップにハマっちゃってる可能性はないでしょうか。
たとえば、旅行に行くことを外注する人はいませんよね。誰かに代わりに旅行に行ってもらう。そんなことはまずしません。旅行は自分で行くのが大事な活動だとみんな知っているからです。でも、旅行じゃなくとも、自分でやることが大事な活動は多分もっともっといっぱい隠されている。
それを知らず知らずにことごとく外注してしまうと、旅行に行くのを外注しながら「なんか面白いことないかな」と呟いている、みたいな実に馬鹿馬鹿しいことになるわけです。「そんな退屈なら外注せんと自分で旅行に行ったらいいがな」って誰でも思うはずです。
でも、それがあくまで「旅行」のように誰の目にも分かりやすい外注禁忌活動でなく、一見すると外注するのが合理的に見える活動であったら、知らず知らずのうちに吸い込まれるようにこの罠に陥ってしまうことはあり得るでしょう。
育児については多分、多くの人もこのジレンマには気づかれてるように思います。子どもと一緒に過ごしたいけど、仕事もしないといけないから「外注」せざるを得ない。この板挟みに誰もが悩んでいる。だからこそ「仕事と育児の両立」が誰もが認める大きな社会問題となってるわけです。
でも、たとえば料理はどうでしょう。時短レシピや時短グッズ、外注の宅食などで、いかに料理を効率化するかに人々は血道をあげています。育児に比べるとさほど「外注」への抵抗感は少なかろうと思われます。
ただ、江草もたまにじっくり料理をすると思うのですが、手間暇かけて作った料理はやっぱり美味しいし、何よりほんと楽しいんですね。
時短料理ばかりやってると失われてる「人生の栄養素」は確実にあるなと感じます。
あるいは、買い物や掃除だってそうなんでしょう。以前、どこかで「掃除機をやめてホウキで掃除するようにしたら人生変わった」的な記事を読んだ記憶があります。一見面倒で省力化するのが合理的に思えることでも、自分でじっくり焦らずやることできっと色んな発見があるし、楽しみがあるのです。
もちろん、人の時間は有限ですから、何もかもに丁寧にじっくり時間をかけることは難しいです。だから、外注することそのものは何も悪いことではありません。「外注」という行為は見方を変えれば「他者を頼ること」ですし「社会の助け合いの一環」ですから、人同士の信頼に支えられた人間社会らしい尊い現象であるとも言えます。
ただ、一見合理的に見えるからといってことごとく自分の周りの物事を外注してしまうと、自分で味わうべき「人生の栄養素」がどんどん欠乏していく恐れがある点には注意が必要ではないか。これが本稿で言いたかったことです。
そして、これを教えてくれたのは、2歳のプーちゃんとのクッキー作りでありました。
子どもというのは大人のせせこましい合理性なんかにとらわれない自由な存在です。良い意味でとにかく「非合理的」なんですね。子どもと触れ合っていると、否応なしに大人の凝り固まった常識をメタ認知させられてしまいます。
「子どもが親を育ててくれる」とはよく言われることですが、まさしくうちの子は人生の教師だなあと、つくづく頭が上がらない今日のこの頃です。