「文句言うなら対案を出せ」に文句を言うよ
「文句ばかり言うな。文句言うならお前が対案を出せ」という定番の批判フレーズがあります。
江草のnoteもあれやこれやに日々文句ばっかり言ってるので、こう思われていてもおかしくなさそうです。
こう批判したくなる気持ち自体は分からないでもないのですが、それでも文句を言う時にいちいち対案を挙げることを要求することは適切ではないと江草は考えています。
これは江草自身がなんだかんだいって診断医のマインドセットを持ってるから感じることでもあります。
到底適切とは思えない診断とそれに基づいて誤った治療を試みてる姿を目撃してしまい、診断者としてそれに文句を言った時に、だからといって対案(治療法)を必ず挙げることを要求されても困るのです。
たとえば、ある症状に悩んでいる患者がいたとして、その方に対して「その症状は呪われてることが原因だからこの霊験あらたかなツボを買ったら治るとこないだマクドナルドで隣りに座っていた女子高生たちが言っていた」という非常に怪しい根拠にもかかわらずツボを買わせようとしている光景を目撃したとしましょう。
当然、真っ当な診断ができる者ならば「その診断は根拠が薄く妥当とは言えないからツボを買うのはやめておいたほうがよいのでは」と批判をする(文句を言う)でしょう。
さて、ここでツボによる治療を止められた治療者が(場合によっては患者自身もともに)冒頭の批判フレーズを放ってきたとします。
「なんだと。そんなにツボに文句があるなら、じゃあお前がこの症状を治してみろ」と。
この批判は妥当でしょうか。
そんなわけはありませんよね。
診断と治療法の妥当性を批判することと、批判者が有効な治療法を提案ないし実施できるかどうかは全く別の話ですから。
もちろん簡単に治療法が挙げられるものなら挙げますけれど、往々にして揉めるのは難しいケースでありがちです。問題の症状が実際に難治性のものであった時にはそもそも有効な治療法や妥当と言えそうな診断がまだ見いだせてない場合があります。
その難しい症状に対してこちらも診断に苦慮している時に、怪しい理屈で診断をつけて怪しい治療を早速始めようとする者をふと見てしまったならば「それはおかしい」と言いたくもなるわけです。
有効な治療法があろうがなかろうが、適当な診断で適当な治療をしていいわけではありません。たとえ、こちらも有効な治療法を知っていなかったとしても、早計を止めることはなんらおかしくない行動でしょう。
文句を言ったからといって対案を求められる筋合いはないのです。
というわけで「文句を言うなら対案を出せ」という定番フレーズは論点のすり替えの誤謬をはらんだ適切ではない代物です。
ただ、ではなぜこのフレーズが人気なのでしょう。
江草の私見では、「問題だけが目前にあって治療法がない状態」というものが人間にとってとても不安で不快な状態だからだと考えています。
不安で不快でしょうがないから、治療法を渇望してしまう。それらしいものがあったらすぐに飛びついてしまう。
実際、診断というのは因果な行為でして、必ずしも「診断がつけば幸せ」というわけではありません。
たとえば、何か病気が発見されるのを恐れて健康診断に行くのを嫌がる方々がいらっしゃいます。(ぶっちゃけ江草自身も苦手です)
病気が発見される前提なのだとすると(偽陽性の話はここでは無視します)、健康診断に行こうが行くまいが、自分の身体に病気がすでに存在していることにはかわりありません。
でも、そうだとしても、人は「知ってしまうこと」を恐れるものなのです。
とくに、それが治療ができない病気であれば、なおさら診断がつくことで悩み苦しむことも多いでしょう。かつて、がんの告知があまりされなかった時代はこうした診断に伴う患者の悩みを避けようとしていたと言えます。
すでに病が存在していることには変わりがないのだから知ってしまってもいいだろうとはいかないのが人間なのです。
人は理屈だけで動いているロボットではなく感情があるのです。
ここが、人間の人間らしいところです。
だから、たとえ妥当とは言えない診断に基づいた妥当とは言えない治療法であったとしても、「それは妥当な診断ではなくしたがって治療法も妥当ではない。あなたの症状は正確な診断さえまだ確立してない難しい病態だ」とそれを否定してくるような「真っ当な診断医」は、現状認識を不安で不快な「治療法がない状態」に引き戻す受け入れがたい存在となります。
それが嫌だから人は求めます。
「じゃあ対案(治療法)を出せ」と。
気持ちはわかります。
しかし、それは存在しない。少なくともまだ分かっていない。
指摘した診断医だって悔しいし心苦しいけれど、まだないんだから仕方がない。
でも、誤った診断から適切な治療が導き出せるとも思えない。
正しい診断を、正しい現状認識ができてこそ、ようやく適切な治療を導き出すための最初の一歩になると信じている。
それゆえに、診断医は今日も誤った診断と治療に文句を言い続けるのです。
対案なんて持ってなくたって言い続けるのです。
(なお、文句を言った者に対案を要求するのはおかしいですが、文句を言った者自身の文句が妥当でない場合はそれを指摘するのはおかしくありません。そうした相互の批判的吟味は正しい診断へとつながる作業のひとつです。あくまで今回の話は文句を言った側の文句が妥当であるにもかかわらず対案を求められている状況を想定しています)
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