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議論は話し言葉か書き言葉か

先日の都知事選で2位となった石丸伸二氏の質疑応答の態度が話題になってます。

質問者に逆に質問を返したり、「もうその点はさっき答えましたよ」と誤魔化したり、別の問題に話をすり替えたりと、相手を煙に巻く答弁スタイルが「石丸構文」として、ネット民の大喜利のおもちゃと化してしまっていると。

いやしくも都知事選で100万票以上の支持を得た方ですし、これだけでどうこうというのは丁寧な態度とは言えませんから、ここでは石丸氏当人の人物評をするつもりはありません。

ただ、もっと一般論的な話で、石丸氏に限らず世の中でこうした煙に巻いたり雰囲気で誤魔化す感じの議論が蔓延していることに、なかなか議論というものの限界を見る想いがするんですね。(もっとも冒頭の知事選後のテレビ取材はあくまで「議論」という体裁のものではなかったことには留意する必要はありますが)


議論というと、なんかこうやって論者同士が実際に対面で口頭でやりとりするというイメージが強いのではないかと思います。

実際、これが誤りというわけではないのですが、ただ、どうにもこうした煙に巻いたり誤魔化したり、雰囲気で押すやり口が蔓延しやすいという点で、「議論とは口頭でやるもの」というイメージはあえて捨てた方が良いのではないかと個人的には感じています。

つまり、議論を「対面で話し言葉で応答しあうもの」ではなく、「それぞれが文章を綴って書き言葉でやりとりするもの」というイメージに転換するわけです。

これ自体は別に斬新な話というわけでなく、数多くの議論指南本やロジカルシンキングの書籍を出されている福沢一𠮷氏もこのように語っています。

「議論」という言葉を聞くと、読者のみなさんはすぐに「口頭での議論」をイメージするのではないでしょうか。そのイメージに反するかもしれませんが、口頭で行う議論も紙面の上で行う議論(議論を書き起こしたもの)も、本質的には何ら変わりがありません。すなわち、口頭での議論に含まれる要素のすべては、そのまま紙面での議論に適応可能なのです。

福沢一𠮷『新版 議論のレッスン』

このようにもともと議論は口頭(話し言葉)でも紙面(書き言葉)でも同様に可能であるのです。

しかし、江草的には世の中で前者のイメージが強すぎる気がしているので、ここはあえて後者のイメージを強めた方がいいだろうということなんですね。

(繰り返しになりますが)口頭・対面での議論においては、雰囲気でごり押ししたりそれっぽい屁理屈で煙に巻くやり口が蔓延しやすいので、特に議論文化が育まれてない社会においては、口頭や対面での話し合いを議論と考えずに、文章での議論をこそ正統なものとして優先した方が安全だろうと思うわけです。

こうした話し言葉的な議論が歪められてるという問題は政治の問題だけでなく、医療情報関係の議論においても指摘されています。

このヤンデル先生も「議論=対面口頭議論」という暗黙の前提に立たれていますが、この前提をも解除して紙面文章ベースの議論を基盤にしていった方がいいのではと。そのためにいっそのことハナから「議論=紙面文章ベース」と一般通念自体を変えてしまおうという企みです。

文章ベースにするとその場その時で瞬間的に対応する必要がなくなるので、じっくりその論理を吟味することができます。

たとえば、先の「石丸構文」だって、その場では雰囲気で押していますけれど、文字起こししたことでその論理のずさんさがありありと浮かび上がってきたわけです。文字起こしで論理のずさんさが浮き彫りになったからこそ、みんなも後から「こりゃひどい」と大喜利化することもできるようになったと。

じゃあ、こうして大喜利化して遊んでる人たちが実際に石丸氏に対面で議論させられていたらその場できっちり対応できていたかというと、必ずしもそうではないと思われます。「定義はなんですか?」「さっき答えましたよ」「もっとまとめて質問してください」などと堂々と返されると多くの人は萎縮してしまうものです。しかし、文章になると、冷静に吟味することができるようになる。これが文章化することの効果です。

もっとも、(本稿も事例をXのポストに頼っていてなんなんのですが)確かに書き言葉だからといって、Xのポストのような短文投稿ベースで議論ができるかというとそれも怪しいでしょう。

やはり140字程度の単位での短文でのやりとりでは、論拠を伴った主張が提示されるというよりは、互いの脊髄反射的な反応を交わすことになりがちですから、確かにテキストではあれど、実態としては「話し言葉」文化に属しているのがXではないかと思われます。

だから、なにがしかの議論をしたいとしても、できれば1000字単位の文章で述べられる方が良い。そういう意味では、ブログやnoteで各々が自分の主張を語るのがちょうどいい。そのように思うわけです。

もちろん、これはブログやnoteに書いたらいきなり素晴らしい議論が可能になるとかそういうわけではないですよ。ブログやnoteだろうとめちゃくちゃなことは書けます。

ただ、それでも対面やXよりは、議論の対象たりえるような主張が出てきやすいだろうと思うんですね。1000字ぐらい書いてると、書いてる自分自身でも、自然と自分のテキストを俯瞰してみることになるので、「あれ、ここちょっとつじつまが合わないな」とか「ここなんか根拠ほしいな」とか自己内での議論のきっかけにもなりやすいのです。

なので、議論文化の入門的立ち位置として、まずブログやnoteで自身の考えを書いてみることはとても良い経験になるんじゃないかと。

そうやってまず書き言葉での議論文化に慣れた後に、徐々に口頭や対面での話し言葉での議論にも慣れていく、そういう道筋のイメージです。


まあ、いつものごとく「言うは易く行うは難し」で、なんだかんだ1000字単位の文章を書くのは大変ですから(江草は書くのが好きなのでかまわないんですけど)、多くの人がそういう書き言葉による議論文化を育むというのは現実的には難しいかと感じます。

だからせめて、「議論=対面口頭の話し言葉」という固定的イメージだけでも緩和されたらいいかなあと思って、このたび文章で江草の意見を書いてみました。

これぞまさに議論ですからね。(そういう江草が適切で妥当な論が展開できてるかどうかはあれですが……)



以下、補足的余談。

そもそも、議論というのが「バトル」や「論破」などの言葉に象徴されるように、勝敗を競う「対戦もの」として扱われてるのもおかしいんですよね。

議論は、それぞれの主張を整理して、論拠を掘り下げていって、その末に互いが変わったり変わらなかったりするという、理屈っぽい系のコミュニケーションの一形態でしかないように思っています。

コミュニケーションであるがゆえに、寛容の精神が双方に求められるのですが、まあ、冒頭の事例ではそうした寛容の精神がまるで見られずに、嘆かわしい状態ですね。

また、本稿では便宜上「書き言葉」にこだわったのですが、やっぱり人間にとって対面や口頭でのノンバーバル(非言語的)コミュニケーションの要素は重要だろうと思っています。

ただ、ノンバーバルコミュニケーションは重要で強力であるがゆえに、議論の本質そのものを歪めることがあるというのが本稿での問題提起で、だからあえてバーバル(言葉)にこだわるところから始めるのがいいのかなと。

とはいえ、ここは逆に「対面での議論こそが適切だ」とこだわっていたソクラテスのような人物もいるので、「議論は話し言葉か書き言葉か」というのがまずひとつの大きな議論ではあるのですが。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。