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noteを毎日書くという習慣

久々にnote投稿企画に乗っかってみます。

こちらの企画ですね。

#日々の大切な習慣

このお題を見たときにすぐに思いついたのは、まさにここnoteで毎日こうして書いてるこの習慣です。

noteの毎日更新を続けて250日ぐらいはもう経ってるのかな。早いものです。

気分が乗ってる日も、乗ってない日も、晴れの日も雨の日も風邪の日もあるわけですが、今のところずっと書き続けられています。250日。これはもう習慣化されてると言っていいでしょう。

寝る前に歯磨きをしないと落ち着かないように、毎日noteを書かないと落ち着かない、そんな体質になってしまいました。

習慣と言うと良い意味で語られる時もあれば、悪い意味で語られる時もあります。たとえばついつい帰り道のコンビニでアイスを買って食べてしまうという習慣は、ダイエットの文脈で言えば悪い習慣に他ならないでしょう。

自分の意思に反してやってしまうこと、自分の気分に関わらずやらなきゃいけないもの、そういった自由を阻害するものとしてのニュアンスか習慣にはあります。習慣などと窮屈なことを言わずに、やりたい時にやって、やりたくない時はやらないのが自由で良いのではないか。まあ、その主張も一理あります。

ただ、習慣そのものが自分の意思で立てたものであればそれはまたある種の自由なのではないかとも言えるんですね。たとえば江草がこうして毎日noteを書き始めたのは紛れもなく自分の意思によるものです。誰かに毎日noteを書けと強制されたわけではありません。

確かに気分が乗らない時でも書かなきゃとせっついてくるところが習慣にはあります。習慣によって自分の行動が規定されてる。ただ、だからといってその都度気分気ままにやったりやらなかったりすることもまた、気分によって自分の行動が規定されてるとも言えるわけですね。自分の意思ではなく気分が主人になっている。これも自由を阻害されてると言えばそうでしょう。

だから、自分の意思で始めて、続けてることに対し良いと感じられてる習慣は、ぱっと見では窮屈そうな「習慣」のイメージとは裏腹に、実に自由を体現してるものとは言えるわけです。自律と表現してもいいかもしれません。

やろうぜと言い出したのも自分で、やらなきゃとせっつかれてるのも自分。やるのはもちろん自分で、その恩恵を被るのも自分。続けるかどうかを常に決めてるのも自分。習慣とはまさにオール自分なプロジェクトなんですね。

で、江草にとってnote毎日更新がちょうどこうしたオール自分プロジェクトとしての習慣なのです。

確かに「今日は疲れてるのにー」みたいな日はありますが、それでも書くと決めてることが、書く機会を如実に増やしました。書き始めるまではしんどくても書き始めるとなんだかんだスラスラ出てくるもので、書き終わればスッキリします。

逆に毎日更新の習慣をつけておらず、不定期更新としてた時期は確かに書く気分でない時に頑張って書き始めようとするみたいな苦労がなく楽ちんでした。でも、その一方で、頭の中のモヤモヤが溜まりっ放しで、なんかスッキリしない日々でもあったんですね。頭の中のモヤモヤは書くことでしか整理できないところがあって、それをなんとなく面倒だからと後回しにしてると、最初は良くても後々響いてくる。

言ってみれば、歯磨きみたいなところがあります。毎日毎度磨くのは面倒だし、スキップすれば楽ではあるけれど、のちのち虫歯になって痛い目を見るみたいな。

つまり、江草にとって毎日書くことは「歯磨き」ならぬ「脳磨き」なんですね。日々溜まる「考えのカス」言わば「脳垢」をクリーンアップしてる感じです。ちょっと面倒だからとか疲れてるからとかでスキップしたくない大切な習慣です。

我ながら日々書いてるnoteの話題に統一感なくマチマチだなあとは思うのですが、これはこうした事情から出てるわけです。その都度、書きたい内容、すなわち頭の中に溜まっているものが違うからこそ、日々書かれる文章もあっちゃこっちゃに飛び火するんですね。

人間誰しもひとつのことばかり考えてるわけでも、ひとつのことばかり体験してるわけではないですから、頭に浮かんでるものをガシガシ出すとなるとその内容も多様になるのは自然なことでありましょう。

こうしたわけで、江草にとってnote毎日更新は既に日々の大切な習慣となってるわけです。今後も忙しくなることもあろうかと思いますが、毎日更新はぜひ続けたいと考えてる所存です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。