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社会的囚人のジレンマ

昨日の話をさらに展開してみますね。


無謀を脱するには暇が要る

なにか世の中にうまくいってないことがあるとして、それが「陰謀があるから」ではなく、「無謀であるから」すなわち「世の中をコントロールしようと考えてないから」という理由に起因してるのだとすれば、その対処法はまず「よく考えよう」ということになります。そして「考える」ということは「哲学する」ということでもあります。

哲学者ショーペンハウエルは「哲学をするには精神に閑暇が必要」と言っていたそうです(また聞きなので本当の原文は江草は知りませんが)。実際、考え事をするのには一定の時間がかかる(暇が要る)というのは、常識的に考えても妥当な認識ではあるでしょう。

ならばつまり、私たちの社会が無謀状態を脱するには考えるための閑暇が必要。要するに「人々が暇でないといけない」ということになります。

ところが、ご存知の通り、誰もが生産性や効率やタイムパフォーマンス(タムパ)を求めて忙しなく働いてるのが現状の世の中です。暇になるどころかどんどん忙しくなっている気さえします。

これは様々なところで様々な論者がすでに指摘のように、各個人が自身の経済合理性を追求する風潮の高まりが背景にあることは間違いないでしょう。

投票参加のパラドックス

たとえば、投票参加のパラドックス、無投票のパラドックスなどと呼ばれているものがあります。

現実の政治に与える自分の一票の影響力なんて微々たるもの。それなら、真剣に政治のことを調べ学び丁寧に考えた上で投票所にわざわざ足を運んで票を投じるような暇があったら、仕事に邁進したり自分自身のスキルを向上する方が自分の利益に返ってくる期待値が高く合理的なので、投票などに行くことは非合理であるということになります。要するに「投票なんて真面目に取り組む暇があったら金を稼げることに取り組む方がいい」ということですね。

実際、日本において投票率はずっと低迷していることからしても、貴重な自分の時間や労力を割いて社会のために謀(はかりごと)をするよりも、自身のキャリアやビジネスに専念することの方が選好されてるというのはさもありなんな話です。

学業や仕事の継続を勧めるプロゲーマー

また、ことは投票に限りません。

最近、あるプロゲーマーが「プロゲーマーの仕事は経済合理的でないから学業や(もっと普通の)仕事を続けた方がよい」という趣旨のことを語った記事が出ていました。

プロゲーマーのようにゲームにおいて才能や人気がある者でさえ、ゲームをすることよりも一般的な学業や仕事を行う方が合理的だと語っているわけです。ならば、プロゲーマーのように才能も人気もない普通の人々は、なおさら「ゲームなんてしてる暇などない、学業や仕事に勤しめ」ということになるでしょう。

こんな状況の世の中で、分かりやすく自分自身の直接的利益につながるようなことに対してでなく、社会の問題を解決するために各自が謀(はかりごと)をすること、つまり「無謀状態」から脱することは非常に難しいでしょう。なぜなら「そんな考え事をするための暇などない」と皆が追いつめられているからです。

経済合理性こそがブルシット・ジョブの温床

しかし、そもそも前回の話は「ブルシット・ジョブ」についてでした。「ブルシット・ジョブ」は陰謀で作り出されたものではなく、むしろ「誰もこの問題に対処しようとしていない」という反陰謀論(江草が言うところの「無謀」)こそが本質であるのだと。

ここで、先ほどのプロゲーマーの語りをもう一度見てみましょう。
「本当はゲームに全力を注ぎたかったけど経済的な不利やリスクを考えて学業や仕事を続けた」というストーリーです。つまり、経済的な問題がなければ、彼は本来はゲームにフルコミットしたかったというのが本音でしょう。しかし、あえて学業や仕事も続けることで経済合理的な結果を得たので「良かった良かった」と言っているわけです。

ただ、ここで、もはや学業や仕事はそれそのものの意義の目線は消失し、それは「金のため」にこそ肯定されています。そして、そのために本来やりたかったゲームは(部分的にですが)犠牲を払うことになっています。

でも、これぞまさしく「ブルシット・ジョブ」に近接してる構造ですよね。本人自身は意義を感じてない活動や仕事に対して、お金のために仕方なく、、、、それをしているのですから。

もちろん、ここで彼は「学業や仕事に全く意味を感じてない」とかそういう話はしていないので、これを厳然たる「ブルシット・ジョブ」とみなすことはできません。

ただ、本人は意義を全く感じてないのに、お金(あるいは世間体)のために態度を取り繕ってそれを続けている仕事が「ブルシット・ジョブ」なのですから、問題として非常に類似した構造を取っているとは言えましょう。

そもそも、学業を修めたり(ここで例に出てる)エンジニアのような仕事に就いていることが、なぜ当然のようにゲーマーの仕事よりも高い安定的報酬を担保すると言えるのか、そしてそれはなぜ正当化しうるのでしょうか。

本来はこれこそが素晴らしく考え甲斐のある不思議な現象のはずなのですが、このプロゲーマーしかり、全くもって無批判にこれは世の中で受け入れられています。

このように無批判に受け入れられてること、これがすなわち「無謀」に他なりません。

我々は「社会的囚人のジレンマ」に陥ってる

つまり、総合的に見るとこういう状態に陥ってると思われるわけです。

「ブルシット・ジョブ」の蔓延を防ぐには皆で考える必要があります。しかし、経済合理性を追求するために皆が忙しく、考える暇がない。結果、ますます経済合理性だけがあってその意義が空っぽになった「ブルシット・ジョブの蔓延を助長するという悪循環です。

たとえ、志を持ってこの問題を考えようとした者がいたとしても、彼はたちまち経済的な不利を被ることになります。なぜなら、人々の経済合理性の追求というのは、誰がより経済的に優位なポジションに立つかという相対的な競争なので、そんな(経済合理性的には)余計なことをやる者はたちまち経済主義が闊歩する世の中ではかっこうの餌食となるからです。

これは言ってみれば「社会的囚人のジレンマ」です。

有名な「囚人のジレンマ」について

囚人のジレンマというのは、ゲーム理論の説明で良く出てくる有名な話ですね。

有名過ぎるので詳細な説明はしませんが、逮捕された二人組の犯人たちが、各々別々の部屋で尋問されて「自白するか黙秘するか」の二択を迫られます。両方とも黙秘すると軽い刑で済むけれど、自分が黙秘して相方が自白したら自分は大変に重い刑になる。逆に自分が自白して相方が黙秘してたら自分は比較的軽い刑になる。でも両方とも自白しちゃうと二人ともそこそこ重い刑になる……というセッティング。

自白しちゃう方が個人目線では結局は合理的ということで二人とも自白しちゃうのだけれども、それは二人とも黙秘するという全体最善の可能性を逃し、二人ともそこそこ重い刑となってしまうという悲しい帰結に至ると。

個々人の合理的な行動が全体としては非合理的になってしまうという悲しいパラドックスがこの囚人のジレンマの面白いところなわけです。

「社会的囚人のジレンマ」の構造

で、今回の社会的囚人のジレンマ。

本来はみなが経済合理性追求(自白する)という個人目線のアプローチから脱して、一度立ち止まって考える(黙秘する)ことが全体的には結果的には合理的であったとしても、自分だけが経済合理性のルートから降りてしまうと損をするから降りれなくなっているという構造です。

なんなら、皆「金や仕事ばかり追う人生が良いはずはない」と本当は感じているかもしれません。でも、それでも他のみんなは抜け目なく経済合理性を採ってしまうのではないか(自分が黙秘したところで他のみんなは自白するのではないか)という疑いが拭えなければ、各自仕方なく自分も経済合理性を追求する(自白する)ルートを採らざるをえなくなるというわけです。

結果、誰もが暇なく忙しなく汲々と生きる傾向がますます増強してしまうという悲しい状況に陥ります。

社会的囚人のジレンマを打ち破るために

これを打破するにはどうしたらいいでしょう。

ジレンマは解消が難しいからこそジレンマなので、当然難しい問題なのですが、それでもあえて提示すると大きくわけて二つのアプローチがあるかなと思います。

非合理的に動く

まず一つは非合理的に動く覚悟を決めること。ただしここの「非合理」とは、正確には「経済的非合理」を指しています。

先ほど、投票参加のパラドックスの例を出しましたが、「これがなぜパラドックスなのか」という点は実はあえて説明を抜いてたんです。さっきの説明だけでは「投票しないのが合理的だよね」という話でしかなく、パラドックスは起きていません。

しかし、本当に「投票しないのが合理的」なのであれば、全く誰も投票しなくなるはずです。でも実際には(確かに日本では低投票率ではあるものの)投票に行ってる人が少なからず存在しています。「この非合理的な行動は何なのか」というのがパラドックスたるゆえんなんですね。

これはまあ色々と解釈できるとは思うんですけれど、ともかくも言えることは経済合理性の外部にある動機を人はやっぱり持っているということです。エモく言えば「理を超えた魂が人には埋め込まれている」とでもなりましょうか。

そもそも、経済合理性は所詮「合利性」とも言うべき、一側面での合理性でしかありません。その理(利)から外れた何かのために非合理的に動ける力が人間にはあるのです。

だいたい、合理的(合利的)に考えるから囚人のジレンマに嵌まるのです。ならば(経済)合理性を捨ててしまえばいい。もっと重要な何かのために「経済合理性なんてクソッたれ(ブルシット)だ」と言い放てる矜持を持つことがパラドックスを破壊するのです。

思えば、もともとの「囚人のジレンマ」だってそうです。あれも自分個人の利益を追求する利己的な合理性にこだわったからこそパラドックスに嵌まったのです。でもここでお互いに「俺はどうなってもいいからせめて相方のあいつだけは救われて欲しい」と利他的な合理性に基づいて判断したならば、二人とも黙秘を貫いて、かえって結果的に二人とも良い結果を得られることになります。

「俺個人の利己的な経済合理性なんて知るか」と言えるかどうか、そういう「利他」という非合理的な矜持を持てるかどうかが、ひとつジレンマ脱出のキーとなると思います。

より大きな合理性で上書きする

もうひとつは、スケールが大きいメタ視点での合理性を追求することです。先ほどと逆に合理性を追求する方向性ですね。

先ほどの「非合理性」は言わば熱く直感的に、利己的な経済合理性にノーを突きつける感覚ですが、こちらは冷静に理性的に考えた結果として利己的な経済合理性を批判するイメージです。

たとえば、先ほどから例に出しているゲーム理論。これ、そのゲームのセッティング内のプレイヤー視点ではこうなるよねという話をしているわけですが、このゲーム理論自体は、この「プレイヤー視点ではこうなるよね」ということを理解した上で我々はどうするべきか、というメタ視点で見るための学問です。

囚人の視点ではこうなるけれど、囚人の視点ではこうなるという「囚人のジレンマ」の存在を知ってる我々はどうするか、というこの感覚は、このジレンマの存在を知ること、ゲーム理論を学ぶことで我々はより良い選択ができるようになるという考えに裏打ちされています。

つまり、メタ視点を得ること、すなわちメタ認知することで、我々の理性的判断はより発展すると、そう考えているわけです。

実際「囚人のジレンマ」の理屈を知ってしまった上でなら、「相方も囚人のジレンマのことに思い至るだろうからここは黙秘が合理的だな」と選択が変わりうるでしょう。

もちろん、必ずしもそうはならないのがジレンマの強敵なところですが、選択の理を動かしうる力がメタ認知にあることは伝わるかと思います。ひとたび全体像の罠を知ってしまったら、私たちの理性はそれを避けようとするのです。

また、一回限りの選択が問われてる「囚人のジレンマ」の例と異なり、私たちが抱える「社会的囚人のジレンマ」は継続的なものです。現在進行形で進んでるし、ほっておくとこれからも悪化しうるものです。ならば、個人の利己的な経済合理性にこだわることは短期的視点では合理的であっても、長期的視点で見れば非合理的である可能性が十分にあります。
「急がば回れ」ということわざは、短期的合理性に惑わされずに長期的合理性を取れということを説いてますが、まさにこの感覚です。

つまり、全体を俯瞰してみる大きな視点で見たり、長期的視点で見たりすることで、真の合理的な選択というのは変わりうるわけです。こうしたメタ視点での合理性を追求することで、拙速で視野が狭い「合理性」を排除することが可能となります。

もっとも、この「メタ視点で見る」ということが、すなわち最初の方で述べた「考えること」であるわけですから、これが出来たら苦労してないよという話ではあります。

それはほんとその通りです。

ただ、それでもちょっとずつ「考える」の火を広げていくことは可能なんじゃないかと思うんですよね。

なにせ人は考えを伝え、そして人の考えを受け取れることを強力な特徴としている種です。
最初は小さな火種(考え)でも、人々の間を伝わっていくうちに徐々に拡大し、果てはすっかり人口に膾炙するということは、しばしば人類史上でも起きてきたことでしょう。

そして、なにより「メタ認知的な話」は一度知ってしまうと、知らなかった頃には戻れないのです。犯人のネタバレを受けたミステリー小説がまるで違う味わいになるがごとく、聞いてしまうともう元の感覚には戻れない不可逆的なところがあります。

だからこそ、江草もこうしてメタ認知っぽい話を、日々こつこつと書いているわけです。ちょっとずつ火種を蒔いているんですね。

正直こういうnoteを書いてる時間を仕事にあてる方がべらぼうに稼げるし経済的に合理的なはずなのですけれど(なにせ本来は社会でも有数の時給高い系の職能持ちですからね)、大きなスケールで合理的に考えた結果としてあえて局所非合理的に動いてるということになります。

まあこれでもちろん、具体的な成果がでるかとか、そういう保証は何もないんですけれど、非合理的に不確実性に突っ込むのが人の生において最も面白い場面のひとつだと思うので、「ワクワクして楽しい」という非金銭的報酬を受け取れる術として、noteに文章を書きまくるのは江草にとって合理的な判断なのです。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。