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子育ては、私から何かを奪ったか

こどもを産んで3か月が経過しようとしている。妊娠期間を含めれば、もう一年以上お酒を飲めていない。もともとそんなに多く飲むほうでもなかったが、制限されればほしくなるというのが人情である。

お酒以外でも妊娠から出産までいろいろな制限があった。まず、妊娠中はうつ伏せで寝ることができなかった。うつぶせ寝はこどもを圧迫するし、そもそも苦しくてできなかった。うつぶせになりながら、本を読むことが好きだった私にとっては、これはかなり大きな制限であった。いまはうつぶせ寝ができるようになったが、今度は自由行動に制限が入るようになった。こどもが起きていれば、本を集中して読むことはなかなか難しい。そもそも寝ている時間になるべく家事を回さなければならない。家事を回し終わって、休憩したら、なんだか気が抜けて何もやりたくなくなってしまうという自分とも戦わなくてはならない。そして気が付いたら、今日も一日が終わっているのである。

子育てをしながら自分のことをやりたいと思うならば、なるべく家事を効率的に行って、休憩を手短に済ませて、時間を確保する必要がある。家事の最低限のレベルを高く見積もっている人にとっては休憩時間を確保することも容易ではないと思われる。幸い、私も夫も家事の最低限の見積もりが低いため、私の時間は確保しやすい状態にある。その折り合いは夫婦しだいだ。この折り合いがどの位置でつけられるかということが産前産後の心の持ちようにかかっていると思う。

しかし、どんなに最低限の家事レベルに折り合いをつけても、家事を効率化していなければ、産後の家事は進まない。なぜなら、寝ている時でも生存確認が必要で、ひとたび起きれば愛情や介助を求める愛しいわが子がいるためだ。おむつを替えて、お乳を与えて、抱っこして、時には歌って微笑んで。どんなに炒め物をしている途中でも、洗濯機が終了の音楽を鳴らしてもその作業を継続することは難しくなる。あと五分でひと段落つくことが分かっていても、泣くことでしか意思疎通を図れないわが子のもとに向かう。そして、寝かしつけることができればやっと次の作業に移ることができるのである。きっと、夫以外の誰かと同居していれば、この手の煩わしさは減るのかもしれない。親世代の干渉が少ない代償に、自由な子育ては提供される。

また、こどもがいることはほかにも制限がある。特に私の場合、母乳で育てているため、長時間こどもと離れて出かけていると、帰りがけにはお乳が張ってしまい、うまく飲んでくれるタイミングまで少々つらい思いをする。そもそも、一人で出かけられることなどないという人もいるので、ぜいたくな悩みなのかもしれないが、一人で出かけることが可能でも制限があるというのもなかなかつらいものである。それに、信頼する夫がそばにいることが分かっていても、こどもの生存を常に確認したくなるという心情も一人での長時間の外出に制限をかけてしまう。物理的にも精神的にも制限が発生する。少なくとも、私には。

けれども、こどもによって何かを失ったとはどうしても思えないのである。こどもを産み、育てる前にあった自由は確かに代えがたいものであるけれど、今こどもを胸に抱えていること以上に必要なものであったかというとそれほどでもなかった、というのが私の思いである。少なくとも、こどもを得たことは私に今まで生きてきて感じたこともないような充足感を私に与えている。こどもの寝顔を見ている時も、微笑まれた時も私の心には表現しようもない幸福があふれてくる。この幸福を失ってしまった時の恐怖が何よりの悪夢になるほど襲ってくることもあるが、それほど大切なものができたことに何よりも充足感を得るのだ。

確かに、この国で子育てをすることは難しいのかもしれない。「標準的な子育て」というもののハードルが高くなりすぎているからだ。ここ100年ほどで「標準的な人間」のレベルは飛躍的に高まった。ゆえに、「適切な子育て」をすることのハードルが高くなってしまい、こどもを産むこと自体のハードルが高くなっている。だからこそ、「無責任」にこどもを産むことができないと考える人もいるだろう。また、そのあまりの責任の重さから逃れたいと思っても仕方ないと思う。

それを自覚しておきながら、なぜこどもを産んだのか。単純だ、こどもが欲しかったから。将来の家族を増やしたかったから。自分の親だって、そんなに考えてこどもなど生んでいない。私のご先祖様だって、配偶者のご先祖様だってそうだろう。人として、こどもを産み育てることが「自然」だからそうしてきた。それでしかない、そう思う。そして、その「自然」な営みが私を幸福にしてくれている。

私のこれからの分水嶺は、復職にあると思う。復職して、時間がますます減って、なお幸せと言い続けられるか。今の時代にこどもを育てるという重さを支え続けられるか。その時に初めて何かを失ったと感じてしまうのか。今の私にはわからないし、想像することしかできない。けれども、一つだけ確かなことは、こどもを疎ましく思わないための努力をすることが親たる私の義務であることだ。こどもを育てる喜びを感じ続けるために、私は努力する。その努力もまた、私を幸福にしてくれると思っている。

家に縛られる、こどもに縛られる。しかし、縛りは悪いものばかりだろうか。縛られているからこそ、浮遊することなく、地に足をつけて生きられるのではないだろうか。自由には責任が伴う。縛りにも、安心や幸せが伴ってもいいだろう。何かの価値はその人生において流動的だ。価値が変わって、今は手から離れているかもしれないけれど、何一つ手放さずに生きていける人生なんてないし、私にとっては得たものの価値のほうが重い。孤独に生きるさみしさよりも、親になる責任をとった、きっとそれだけのことなのだろう。

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