揺れろになるまで

なんかつらい。
こういう「空気読み大会」に参加させられて以来、うちで踊るという、みんなで外で踊ることに対する二次的な快を追求させられ、もうわたしの超自我はもうこんな怠惰な日々に疲れてしまったので、なにかしようとするが、うちのなかにいても、他の人と比較して、自分は何にもやっていない、自分には生産性がない、というような自己嫌悪に陥ってしまうし、生産性という資本主義的な論理を持ち出す、生産性がないと思っている自分自身にも嫌悪してしまう。資本主義はこんなときにも纏わりついてくる。

みんないらだっている。
「空気読み大会」で空気を読めない「やつ」はすぐさま除外され、のけもの、いわゆるCOVID-19に仕立てあげられるのだが、問題なのは、みんながいらだちを、空気を読めないやつを使ってなんとか発散させようとしていることは常に既に失敗していることを理解していないことだ。公益を考えて、家にいます、家にいるのが感染を防げるもっとも簡単な方法なのに、なんでやらないの、というようなことを自分の「利他心」からいって、結局自分が感染しなければいい、社会ののけものにされなければいい、と思っているのだろう。そんなわたしもこんなことを言っていらだっているのだが。そして、そんな自分をみて嫌悪する。

なんか信念がないと、揺らいでしまう。
揺らいでみるのも、おもしろそうだな、と思って揺らいでみると、思っていたのと違う揺らぎ方をするのは、結局揺らいでいるのは他人の頭の中だからではないのか、と考える自分の頭の中も揺らぐわけであって、最近、不安と焦りについて考えている自分にとってはごく自然なことなのかもしれない。自分の信念は一応、机の前に貼ってある青い付箋に書いてある言葉に決まったので、それに一応は従ってみようと考えてはいるものの、その言葉っていうのはどういうことなんだろう、「真面目に生きる」ってどういうことなんだろう、自分は真面目に生きているのか、いやそんな気がしない、こういう状況においても真面目でいられる強さが求められているのか、社会から。真面目に揺らいでみようか。

みんな結構同じ。
意外とみんな暇かなあ、と思って、メールを送ったり、ラインしたりするのだが、なかなか返ってこないのは、みんな自分と同じような感じなのかな、と安心するのはなかなかできないし、やっぱり返ってきてほしいとは結構思っているから、そこはどう折り合いをつけるべきなのか、こういうときだからこそ、気長に待ってみるのもありかなと。みんな結構うつす、うつさないって気にしているんだなあって、みんな意外とメールとかラインとか返さないんだなあ、ストレス溜まっているんだなあ、って思っているのは自分だから、自分も気にしているし、返さないし、溜まっているのかもなあ、とみんなが空気を読んでいるのか、もともと同じようなものなのか、よくわからない。みんな同じって安心するよね。

こんなもの夜中の3時に書いて、ベッドの上でスマホを両手で操作して、たまに手を下ろして腕を休めて、何になるのか、と言われても何になるかはよくわからない、ということが夜中の3時におきるから、この時間帯がすごく好きなのだと今さら感じる、いや今感じている。ほんとうになにしてもいいし、なにもしなくてもいいし、夜中の3時に外に出ても、のけものにはされないし、最高の時間帯というわけだ。冷蔵庫が鳴り出し、充電器の光と火災報知器の赤い光が点滅し合う。あとは静かで暗い。もう長い文は疲れた。揺れる。ただ揺れていたい。ただ揺れていようよ。それが「揺れろ」になるまで。

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