教育倫理という問題意識(2)

前回の乱雑な議論を5W1Hにまとめてみると、意外にもスッキリする。要するに、私が問いたいのは以下のようなものたちだ。
What: 何を教えるのか?、どのくらいのリソースをもって教えるのか?(教育倫理)
Why: なぜ「それ」を教えるのか?(What の根拠)
Who: だれが決定するのか?(権力/権限の問題)
When: いつ決定するのか?(同意の継続性の問題)
Where: どこで決定するのか?(地域性の問題)
How: どのように教えるのか?(方法論)
この中で、特に重要だと考えるのは、What, Why, Who の三つのカテゴリなのだが、それぞれどのような性質の問いなのか、明らかにしていきたい。

What: What do we teach (and do not teach)? 何を教えるのか?、どのくらいのリソースをもって教えるのか?(教育倫理)
教育者は何を教えるのか。何を教えることで教育の目的を最大に達成できるのか。しかし、この問いを呈示するとき、それと同時に、教育者は何を教えないかを決定している。ここで、暴力性が出現することは前回述べた通りである。だから、倫理的な問いでもある。教師が何かを教える/教えないことで、生徒に影響を及ぼしているからである。しかも、教えても教えなくても暴力性は発生する。そして、教えるにしてもどの程度か。時間は有限なので、教えることができることも限られてくる。これはリソースの分配問題である。社会学における、どのように富を分配すべきか、というロールズのいう分配的正義の問題にも構造が似ている。

Why: Why teach this? なぜ「それ」を教えるのか?(What の根拠)
教育者は何かをこのくらいのリソースをもって教えるにしても、それには根拠がなければならない。この根拠は、何をどのくらい教えるかを決定するための基準である。次回研究する福島県の義務教育においては、震災と原発事故という出来事が何をどのくらい教えるかを決める基準としての役割を果たしている。そして、この基準は教育の目的をもとにして構成される。例えば、教育の最大の目的が「地質学の研究者を育てるため」というものであれば、何を教えるかの基準は、地質学者になるために必要な素質に基づくことになる。今回の研究では、とくにデューイが考える教育の目的をベースとしたい。
 ここで、教育の目的に対しても基準を設置しなければならないのか、という新たな問いが出てくる。そして、これは無限遡行の問いでもある。要するに、教育の目的は人生の意味によって定められることとなり、人生の意味も何かしらの基準によって定められることが必要となってくる。もし、ここでトマス・ネーゲルのような懐疑論を持ち出すとすれば、私たちは人生の意味を定めることができず、同時に教育の目的を定めることができなくなる(注1)。これは避けたいので、ネーゲルの懐疑論ではない道筋が必要だ。

Who: Who chooses what to teach? だれが決定するのか?(権力/権限の問題)
だれが何を教えるかを決定するのか(この問いは、だれが何を教えるかの基準を決定するのか、という問いを包含している)。そして、それを決定した人は生徒に対して倫理的な責任を負うこととなる。なぜなら、先述したように何かを教える/教えないことは暴力性を含んでいる可能性があるからだ。このような責任ある人は、何を教えるかを決める権限(権力)を持っている。この問いは権力についての問題なのだから、これが教育システムを定義することは自明だろう。

When: When do we choose what to teach? いつ決定するのか?(同意の継続性の問題)
いつ、何を教えるかを決定することは些細な問題と思うかもしれない。しかし、時の問題は意外と重要であることに気づいた。それは、同意の継続性に関係するからである。同意の継続性については拙稿「「ボランティア」の内在的批判」において不可能であると述べたが、これを踏まえると、たとえカリキュラムを作成するときにカリキュラムに対してある個人または集団から同意を得たとしても、実際にそれが教育に反映される前に同意が破棄される可能性がある。福島県では教育計画を定める際、何を教育に求めるのかということをきいたアンケートをとるのだが、このアンケートがある程度福島県の義務教育のカリキュラムに影響を及ぼす。教育計画を作成する福島県側はそのアンケートによって県民とカリキュラムについて同意を求めている。しかし、そのアンケートの回答が利用されるのはアンケートが実施されてから数年後である。その間に、回答者がその時の回答とは異なる見解を持っている場合が多々ある。すると、そのカリキュラムは結果的に同意を無視したかたちをとることとなる。理想としては、常に同意を得る必要があるのだが、現実的にはそれは不可能なので、どのようにすれば同意を継続させるチャンスを最大まで上げられるかが重要な点となってくる。

Where: Where do we choose what to teach? どこで決定するのか?(地域性の問題)
これは次回、実際の事例を考察するときに役立つ(かもしれない)問いである。つまり、カリキュラム(何を教える/教えないかを示したもの)は地域によって異なっていることは妥当か。教育を受けている場所によって、何を教えられるかに差異があってよいか。カリキュラムは普遍であるべきか。この場所にはAがあるからAについて教えるべきか。また、この場所にはAがないからAについて教えなくてよい、ということはいえるのか。

How: How do we teach? どのように教えるのか?(方法論)
実際に教育するときの方法については、ここでは議論しない。ただし、「教育論といえば,結局,教育方法論だった」(注2)と田中智志が言うように、現代の教育論は教師の他者である子供に対する教師の暴力性を無視するように、「教育方法などという目先の問題ばかりに拘泥する」(注3)、という議論のみはここに記しておくとしよう。

 これらの問いを持った上で次のステップに進みたい。次のステップというのは、福島県の義務教育課程という実際の事例に基づいて、これらの問いを議論することだ。なぜ福島県なのか、などの疑問は次回に持ち越したい。


注1. ネーゲルの懐疑論については、Nagel, Thomas, “What Does It All Mean?: A Very Short Introduction to Philosophy,” Oxford UP, 1987(トマス・ネーゲル、「哲学ってどんなこと?—とっても短い哲学入門—」、岡本裕一朗・若松良樹訳、昭和堂、1993年)の第10章「The Meaning of Life(人生の意味)」を参照。
注2. 田中智志、『他者の喪失から感受へ—近代の教育装置を超えて—』、勁草書房、2002年、p.1。
注3. 同書、p.9。

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