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ドゥルーズのアベセデール (1) A comme animal (動物)

 ドゥルーズの晩年に撮影された貴重なインタビュー映像「アベセデール (L'abécédaire)」が入手できたので、その内容を随時ここに載せていきたい。今回入手したのは英語字幕版(Gilles Deleuze from A to Z)だが、日本語字幕版も発売されている。「アベセデール」では、ドゥルーズの教え子であるジャーナリストのクレール・パルネ(Claire Parnet)がインタビュアーとなり、ドゥルーズにアルファベット順に25個の単語を投げかける。このインタビューで、ドゥルーズはガタリと共著の『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に登場する概念もわかりやすく紹介している場面が数多くあるので、ぜひこれらの本を読む前に一度見ておきたい。

今回はAnimal、動物についてだ。この章でのキーワードは、動物への生成変化、脱-領土化、書くことの三つだ。

1. 動物への生成変化 (devenir-animal)
ドゥルーズは動物嫌いである。しかし、全ての動物が嫌いなわけではない。ドゥルーズ曰く、多くの動物が好きだからこそ特定の動物を嫌悪するのだ、と。では、ドゥルーズが嫌悪する特定の動物とは何か。それは、familierあるいはfamilialeである動物だ。Familierとは、フランス語で「親しい」や「慣れている」を意味する形容詞で、familialeとはフランス語で「家族内の」を意味する形容詞だ(綴りの違いに注意)。特に、ドゥルーズはペットという人に慣れていて (familier)、家族の一員とまでなっている (familiale) 動物を嫌悪する。例えば、猫は自分にこすってくるから嫌いだという。また、ドゥルーズは犬を、その吠える行為が恥ずかしき「バカな嘆き (the stupidest cry)」だと表現する。犬や猫が社会保障を無料で享受している点もドゥルーズの癪に障るようだ。
 犬や猫のようなペットが好きだということは、人でないものとの関係を築いているということだ。ドゥルーズはこの関係を、子供が築くような動物との幼稚な (infantile) な関係であるという。まず、人が動物に向かって話すこと自体、ドゥルーズは恐怖であるという。フロイトの精神分析では、夢の中に出てきた動物は父のイメージであるというが、ドゥルーズにとってはそれもまた恐怖である(注1)。このような恐怖に満ちた<動物との人間関係>ではなく、<動物との動物関係>を重視しなければならないと説く。では、動物との動物関係とは何なのか。ドゥルーズは、クモやハエ、ダニなどは犬や猫と同様に等しく重要であると考える。そして、例えばダニのついている人を見てみると、そこにはダニと人との間に積極的な関係=<動物との動物関係>が認める。
 ドゥルーズは動物好きである。なぜなら、すべての動物には世界=<動物世界>があるからだ(多くの人間には世界がない)。動物世界はすごく限られている=貧しい。例えば、ダニは三つの刺戟—光、臭い、触覚(注2)—にしか反応しないという(注3)。ドゥルーズはこれを、3つのものをこの広大な世界から「これだ」と抜き取る (extrait) ことと解釈し、この抜き取る行為が(動物)世界の構成要素だとした。つまり、ドゥルーズのいう「動物への生成変化 (devenir-animal)」は動物との動物関係を通じ、世界からある要素を抜き取るfamilierでもfamilialeでもない動物に生成変化するということだ。ドゥルーズはこれは動物-エクリチュール関係とも表現している。動物への生成変化と、エクリチュールの持つコンテクスト(文化的背景)を抹消し、それを「動物化=原始化」する生成変化と比較している。

2. 脱-領土化 (déterritorialisation)
動物は領土的問題である。動物における領土といえばなわばりだ。動物は肛門腺や尿を使ってなわばりの境界線を引いたり、姿勢を高く/低くすることで領土の位置を示したりする。マントヒヒやマンドリルなんかはお尻の色が領土を示すという。ドゥルーズは、動物が領土を持つことは芸術作品の誕生と似ていると指摘する。芸術作品は線=姿勢、色、歌などで構成されるが、これは動物が領土を示す時に用いる要素と近似している。
 哲学者はよく野蛮な (barbare) 概念や言葉をつくって批判されるが、ドゥルーズ=ガタリのつくった「脱-領土化 (déterritorialisation)」という概念も野蛮なものだ。なぜなら、領土を出る動きを表す時には野蛮な言葉が必要だからだ。領土は所有することももちろん問題だが、領土から出る動きも重要だ。領土から脱する (sortir) ベクトルがない限り、領土は存在しない。ということは、脱-領土化がない限り、領土自体も存在しないのだ。動物が自分の領土を出ることは危険である。なぜなら、領土の外には自分の知らないことやものがあるかもしれないからだ。その不確実性は恐怖を増す。つまり、脱-領土化は不確実性の創出なのだ。でもそれが恐怖であったとしても領土を脱しない限り自分の領土はない。それは<動物への生成変化>にも共通することだ。familierでもfamilialeでもない動物に生成変化するということは、何にも慣れていないし属していないシャープな個体になるということ。それは危険や不確実性を伴うが、自分の領土(familierあるいはfamilialeであること)を存続させることでもある。それが脱-領土化の二面性なのである。

3. 書くこと (écriture)
動物になるということはあるしるし=シーニュを出し続けることである。しかし、それと同時に他のシーニュに反応しなければならない。要するに、動物になるには常にシーニュを見張ってなければならない。動物の耳は見張る目的でしかない。しかし、注意深い (aux aguets) のは書き手や哲学者も同じだ。書き手 (écrivain) は読み手のために書く。ここでの「のために (pour)」は「に向かって」の意味だ。だが、書き手は読み手でない人のためにも書く。どういうことか。ここでの「のために (à la place)」は「の代わりに」の意だ。例えば、バカのために書く、無学のために書くとはどういうことなのだろうか。それは、書いたものをバカもしくは無学が読むことを意味していない(まずもって、彼らは読むことができない)。それは、書き手がバカもしくは無学の代わりに書くことを示しているのだ。書き手は”本当に”バカなのだ。
 ドゥルーズは、個人的なことを書くことはつまらなく、恥であるとまで言う。だから、書き手は普遍的なことに自分を投入しなければならない。『千のプラトー』でドゥルーズはホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」から引用する。「書き手は魔法使いである。なぜなら、彼は動物を、彼が責任を負う唯一の集団であると考えているからだ。」これはどういうことか。まずドゥルーズはカフカの『変身』を例に出しながら、人が死ぬときは動物のように死ぬ、と指摘する。『変身』では主人公のグレゴールがある日突然巨大な毒虫に変身するという冒頭で始まるが、最終的には自身の部屋も物置と化し、家族に見捨てられながら死ぬこととなる。このとき、グレゴールは家族によって奥に追いやられてながら死ぬのだが、これは猫にも同じことが言える。猫も死ぬ領土があり、その領土は大抵部屋の隅である。このように、死に直面するとき及び死ぬとき、人間と動物は似たような行動をとるが、我々人間は人間と動物あるいは動物性との間に境界線を引きたくなる。ここでドゥルーズは、書くことは押し通すことだと言う。言語およびシンタックスには限界があり、言語とその他のものには境界が作られる。言語/沈黙や言語/音楽、言語/嘆きの間にも境界線がある。もし書き手が言語と動物性との間に境界線を引いたらどうなるのだろうか。そうすると、言語と動物性の間にある境界線を押し通さなければならない。言い換えれば、書き手は動物の死に責任 (responsabilité) を持たなければならない=応答 (répondre) しなければならない。つまり、書き手は死んだ動物「のために」=「の代わりに (à la place)」書く。これでホフマンスタールが言わんとしていたことが少しは明確になったはずだ。
 ドゥルーズ曰く、哲学者はつねに動物性 (animalité) から分離していなければならないが、もはやそれは分離していないような形を取らなければならない。哲学者も書き手である。ドゥルーズは論争嫌いで知られるが、書くことには目がない。だから、哲学者は書くことで言語/動物性の境界線を押し通さなければならないのだ。彼らは書くことのプロセスの中で人間の中にある非-人間性=動物性を探り、動物へと生成変化しようとする。これは思考 (pensée) /非-思考 (non-pensée) の境界でもある。思考することで思考しなくしようとする。


注1: 動物とオイディプス・コンプレックスとの関係については、フロイトの著作「ある5歳男児の恐怖症の分析」や「トーテムとタブー」が詳しい。
注2: ドゥルーズはアベセデールの中では「触覚」と発言しているが、正しくは温度感覚である。
注3: ダニの話は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』で取り上げられているユクスキュルの環世界に詳しい。なお、アガンベンは『開かれ』でドゥルーズの「動物世界」が単なる環世界であると暴露している。


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