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ぐったりとした日曜の昼間に

死んだら周りの人たちは泣いてくれるのだろうか、ということを考えているときはだいたい気分が落ち込んでいるときだろう。なぜなら、その問いには答えがないから。答えがないことを考えるなんて意味がないよ、なんて言われたら、もっと気分が落ち込んでしまう。なにかを書くことなんて、ほんとうに気分がよければしないはずだ。そんなときは体は動くし、心は躍る。けれど、日曜の昼間にベッドにぐったりとして、スマートフォンを両手に文章を描いている時点でなにか答えのない問いを考えてしまっているということだ。

ここ数日、永井玲衣の『水中の哲学者たち』を読んでいた。その本も答えのない問いを考えてつづけていた。水中をさまよっていた。永井はそれを「哲学」と名づける。永井は哲学対話を実践するが、彼女の文章はいまのわたしのように孤独に包まれている。どうしてだろう。それは--これはあくまでも仮説としてきいてほしい--対話に参加するのは孤独をなにかしらの形で経験したことのある人たちだからだ。言い換えれば、孤独を経験しているからこそ、対話に参加しようとする。それは対話という他者がいる空間に足を運ぶことで孤独を解消しようとするのではなく、他者が自分を孤独にすることを知っているからこそ、わざわざ他者のいる空間に入り込むという矛盾の含んだ行為だ。永井の本を読んでいて、すくなくともわたしにはそう感じた。

死んだら周りの人たちが泣いてくれるだろうか、という問いは、きくだけ無駄な問いだというのは知っているけれど、わざわざそれを自問してしまうことも矛盾といえよう。だけど、そうでないと他者とかかわることができない。一人でいることは好きだけど、孤独は嫌だという感情はそういう意味で理解できるし、共感する。でもその「共感」というのも自分を孤独にすることを知っている。知っているからこそ、それでも共感するのだ。

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