熱帯魚、

僕は脚本を書いている。
と言っても、上演できるようなクオリティの代物ではない。
模倣と、感性と、衝動と、音楽によって形成された若気の至りだ。
でもいつか、どこかでひっそりと上演したいと思っている。

僕はこれから、「熱帯魚」を自分の脚本のテーマにしたいと思う。
いつからか、演劇のことを考える時、
自分の思考と、身体と、表現と、感性と、様々な物事を見つめる時に、
目の前を熱帯魚がちらつくようになった。
色とりどりの熱帯魚、彼らは様々な色彩を身に纏う、
ゆらゆら、ひらひら、海藻のすきまを泳ぐ熱帯魚、
でも、彼らが海を泳いでいるところはどうにも想像できない、
水槽の中で、広くとも水族館の青の枠に収まりきった彼らは、
自由を手にすると同時に、不自由さを強要されているようにも思えた、
僕は閉じられた空間の中で自由に、ゆったりと泳ぎ回る彼らを想起して思う
僕らも彼らと同じ、熱帯魚なんじゃないか、

不自由な自由さ、強要される自由主義、
人間は自由という刑に処されている、サルトルは言った、
僕らは自由であるがゆえに不自由になる、
不自由であると同時に自由でもある、
個々人が様々な色を持ち、個性を持ち、思想を持ち、自分を持ち、
カラフルな熱帯魚でありたいと願う、熱帯魚であるままに、
しかし、時に統一された群であることも強要される、
同じ色をして、同じ顔をして、同じことを言って、同じことを思って、
同じところを何度も何度も回る、回る、回ることを要求される、
次第に、僕らは自分達が熱帯魚であることを忘れていく、
隣の芝生ばかりが色鮮やかに見えて仕方がない、

僕はそんな熱帯魚のそれぞれを描きたいと思う、
ピントを搾って、時には俯瞰して、そして自分の色と向き合いながら、
様々なそれぞれを、描き、そして演じたいと思う、

amazarashi「独白」の中で秋田ひろむは投げかける。
一行では無理でも十万行ならどうか、
一日では無理でも十年を経たならどうか、

その時まで、
とりあえずは書き続けていきたいと思う。

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