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奈良の夜景:第四変奏 1万2千字

 仕事を終えて大阪難波から急行に乗った。近鉄奈良の駅前で陽子が待っているはずだ。大和西大寺を過ぎると電車は平城宮跡にかかる。朱雀門から大極殿が見える。あのときは大極殿はまだ復元されていなかった。記憶は一気に十年さかのぼる。

  ∞ 一 ∞

 修学旅行は奈良・京都の歴史の旅だった。いわゆる名所巡りではなく、歴史や古典文学を題材にいくつかのコースが用意され、それ以外に、何かのテーマを持って班で自由に活動することになっていた。
 班編成は生徒に任されていたが、こういうときにうまくやれないのが何人かはいるものだ。

「おい、もちょい、どうする?」
もちょいに声はかけたが、お互い一緒に行動する気はない。
「とりあえず班にしちゃうか」
「式部様もあぶれてるみたいだぜ」
「入れるか」
陽子に声をかけた。
「石野森さん、同じ班にならない?」
「どこに行く班?」
小さな声で説明した。
「僕ら、とりあえず班にして、実際は自分勝手に動くつもり」
結局あぶれ者四人で班を作った。もちょいが計画書を作って出した。形だけである。陽子があぶれ者で同じ班になったことで、修学旅行が楽しみになった。同じ行動は取らないにしても、同じ班なのだ。

 京都を巡って奈良へ。藤原氏に焦点を当てて、平城宮跡、興福寺、東大寺、春日大社を巡るコースだ。
 興福寺、東大寺では観光客が鹿にせんべいをやっている姿が目立った。クラスメートも鹿せんべいを買っている。それを眺めていると、陽子がそばに寄ってきた。
「道真殿も鹿せんべい?」
「いや、子どもじゃないから」
 昨日は別々のコースになったが、今日は陽子と同じコース。ここで「みちざね殿」と呼ばれるとは思わなかった。「菅原君」が普通で、ときに「道雅君」と呼ばれる。ちょっとうれしくなった。
「陽式部様は買わないの?」
文芸部でのペンネーム「ひのしきぶ」で呼んでみた。
「私だって子どもじゃないもの」

 大仏殿、春日大社、それぞれ集合時刻と場所を決めて、中では自由に動く。鹿せんべい以降、なんとなく陽子と一緒に行動するようになった。いや、本当は何となくではない。できるだけ自然に見せるため、時には離れながら。
 大仏殿前で線香が焚かれている。参拝者は賽銭を投げ、手を合わせている。
「道真君は参拝しないの」
賽銭を投げながら陽子が聞いてきた。
「う〜ん、仏教徒じゃないから」
「仏教徒でなくてもいいのよ。ちょっとしたご挨拶だと思えば。それに、賽銭は文化財保護費用と勝手に解釈しちゃえば。私だって無宗教だし。」
そう言われても少し抵抗がある。
「ふふ、道真君、観光客と同じことするのがいやなんでしょ。誰もいなければ普通に参拝するんじゃない?」
 確かにそれはあるかもしれない。他の寺に行ったとき、絶対に参拝しないわけではないのだ。賽銭はあげなくとも、「こんにちは」と言って頭は下げる。観光客と同じはいや、を見透かされている。結局、「こんにちは」と言って手を合わせて頭を下げた。それがまた陽子の笑いを誘った。
「ふふ、仏様にこんにちはという人、初めて見た。」

 大仏殿を出ると、ぞろぞろと歩きながら春日大社に向かう。陽子とは付かず離れず。本殿前で神職から一通り解説を聞いたあとは自由行動になる。事前に調べてあった若宮十五社をひとりで巡り終わったころ陽子と出会った。まだ集合時刻まで間がある。思い切って誘ってみた。
「陽式部様、飛火野の方へ行かない?」
再び「陽式部様」と呼んでみたが、何の抵抗もないようだった。飛火野は春日大社南東の広大な公園だ。あちこちに鹿がいる。クラスメートでこちらに来る者はいない。陽子とふたりだけだ。
「道雅君、さだまさしのまほろばって知ってる?」
今度は道雅君か。
「知らないけど。さだまさし、好きなの?」
「父が好きでね、私もよく聴いてるの」
「どんな歌?」
「照れくさいから歌わないけど、『春日山から飛火野辺り』って始まるの。叶わない恋なんだけどね」
黙ったまま聞く。
「芥川龍之介の蜘蛛の糸は知ってるでしょ」
「うん」
「あれを引き合いに出してね、『君を捨てるか、僕が消えるか、いっそ二人で落ちようか』って」
歌わないといいながらメロディーが乗っている。
「ふたりで落ちるならいいかも」
「でも、最後は、『何もかも移ろい去って 青丹よし平城山の空に満月』だから」
こんどはメロディーがない。
「ふ〜ん」
「あ、いけない、集合時間よ」

 宿泊は奈良市街の、修学旅行生がよく泊まるホテル。夜も八時半までは班での外出が許されていた。われわれの行動パターンは昼間と同じである。集合時間と場所を決めて、あとは好き勝手に動く。
 宿を出ると、集合時間を確認してそれぞれの方向に向かった。三条通りをひとり東に行く。猿沢池近くの土産屋は中学生でいっぱいだ。陽子と約束しておけばよかったと思いつつ、何を買うでもなく、ぶらぶらと三条通りを進むと興福寺。ライトアップされた五重の塔のもとに、思いがけず陽子がいた。
「石野森さん、どちらへ?」
「あら、菅原君。今、猿沢池からあがってきたところ。東大寺へ行こうと思って」
「また?」
「だって、大仏殿しか行かなかったでしょ」
はっきりした目的地があったわけではない。陽子が行くなら一緒に行こう。
 五重の塔を見上げながら陽子が言う。
「ねえ、五重の塔がこうやってライトアップされてるの、どう思う」
「いかにも観光地って感じかな」
「こういうのを俗化っていうんじゃない」
「別にライトアップしなくていいか」
「暗ければ暗いで、そのままがいいのよ。たとえばほら、ここに月がかかることを想像してごらんなさいよ。」
それが文学少女の感じ方なのかな、と思う。

 ふたりは連れ立って歩き出した。国立博物館の前を抜けて奈良公園へ。昼間の喧騒とうってかわり、ほとんど人影はない。鹿の鳴き声だけが遠くから聞こえる。
「意外に静かね」
「このあたりはおみやげ屋さんも全部閉まってるね」
「こんなに暗いと思わなかった。道真殿と一緒でよかった」
菅原だったり、道雅だったり、道真殿だったり。どうやって使い分けているんだろう。
「そういえば、菅原君、なぜみちざねどのって呼ばれてるの?」
知らずに呼んでたのか。
「道雅のまさを同じ読みで真実のしんにすると道真でしょ」
「あ、そうか、単純だった」
「それ、僕が単純ってこと?」
「あら、違うわよ。理由が単純ってこと」
わざと言ってみただけだ。
「二月堂へ行きましょうよ」
 東大寺南大門をくぐり、鏡池の南から三月堂の前を通って二月堂へ。

「ここで修二会をやるのよ。お水取り。」
「式部様は見たことあるの?」
ひのしきぶさまでは呼びにくい。もちょいと言っているように式部様で呼んでみた。
「テレビではね。本物は見てないの」
「卒業したら見に来ようか」
「ふたりで」は言いそびれた。
「だいぶ混むみたいよ」
「でも一度は火の粉を浴びてみたいね」

 本堂には夜でも上がることができる。西側に回ると奈良市街の灯に、大仏殿のシルエットが浮かびあがっていた。並んだふたりの肩が触れた。そっと視線をを向ける。街の灯をまっすぐに見る横顔が清々しい。昨日から今日にかけて、陽子との距離がずっと縮まった気がした。
「そろそろ時間ね、行きましょうか」
「うん」
南大門に向かいながら、陽子が言った。
「ねえ、昨日のガイドさんが歌っていた歌だけど」
「なんだっけ」
「京都 大原三千院 恋につかれた女がひとり」
陽子がそっと歌いだす。きれいなソプラノだ。
「恋につかれたって、二通りあると思うの」
「二通り?」
「くたびれたっていうときの疲れたと、妖怪とかそういうのに憑かれたときのつかれたと」
「ああ、そうだね」
「道真殿はどう思う?」
「ものに憑かれたのつかれたはなんだかおどろおどろしいね。式部様は?」
「くたびれたの疲れたが普通かもしれないけれど、女の情念の深さに苦しくなって、それを少しでも和らげようと寺に参るってのあるのかなと」
いかにも文学少女らしい発想というべきか。
「式部様はいま、そういう恋をしているの?」
イエスともノーとも聞きたくなかったが、つい口に出た。陽子は黙ったままだった。イエスといえば、それが誰かが気になる。ノーなら私には何も関心がないことになる。黙っているのは、私への気遣いだろうか。それとも、単に言いたくないだけのことなのか。

 修学旅行は終わった。
 三年生になり、六月を過ぎると大学受験一色になる。学校以外で陽子と会うことはない。放課後に図書室で一緒に勉強することはあった。といっても、誘い合わせたわけではない。図書室に行って、陽子がいれば遠慮がちに近くに席を取るのだった。陽子の方が成績はよかったが、何かを教えてもらうでもない。ただ、数学だけは経済学部志望の私の方ができたから、時々聞きに来ることはあった。とはいえ、陽子にわからないはずもなかったろうから、ただの口実だったのだろうか。それとも、そう思うのは私の思い上がりだっただろうか。
 夏休みの予備校の特別講座も別々で、エアコンのない学校の代わりに市の図書館に行ったが、そこでも会ったり会わなかったり。「一緒に勉強しよう」のひとことを言うことができなかった。ひとつだけ安心していたのは、駅で見かけるときも、図書館で会うときも、いつも陽子がひとりだったことだ。図書館で勉強を終えて別れるとき、「道真殿、明日も来る?」と時々聞かれるのがうれしかった。聞かれないときは、明日は陽子が来ないということだった。
 秋になり、志望校が奈良女子大とわかったときも、大阪大学に行けばわりに近い、と思っていた。模試の成績表をのぞき込んだ陽子が、「菅原君、阪大なの? それなら近いね」と言ったときは、「そうだよ、近くに住めるね」と喉まで出かかったが、「うん」としか言えなかった。

  ∞ 二 ∞

 卒業はふたりの進路を分けた。陽子は第一志望の奈良女子大学に合格した。私は大阪大学を落ちて、関東の地方の国立大学に進学した。二人を隔てるのはその距離だけではなかった。はじめのうちは手紙を書いたりメールをやりとりして、お互いの学生生活を報告しあったが、その間隔がだんだん空いていく。
 正月にメールを書いた。
「二月堂、行く?」
 返事がきた。
「ごめん。ちょうどサークルの合宿と重なっちゃって」
 大学に入れば新しい出会いがあり、目の前の世界が一変する。やがてそれぞれの道を歩きはじめるのは必然だったろう。新鮮な大学生活の輝きの中で、古い約束は次第に色を失っていく。

 二年生になって、マンドリンアンサンブルに初心者の一年生が入ってきた。小柄で顔立ちの整った明るい子で、同じ経済学部の後輩でもあった。名前はあえて書くまい。Rというイニシャルだ。
 高校時代からマンドリンをやっていて、早くもセカンドのトップだった私が指導係になった。合奏日だけでなく、放課後に時間があればパート練習をしながら指使いや弾きかたを教えていく。個人練習をしているところに話しかけることもある。同じ学部だから話も合う。練習をしながら講義の話になることもある。
「菅原さん、ドイツ語のU先生知ってます?」
「去年習ったよ」
「今日、ドイツ語だったんだけど、私が当たったの。それで答えられなかったら、立ってなさいだって。中学生じゃあるまいし」
「ああ、たしかにそういうとこあるね、あの先生」
「でも、あの先生の発音、おかしくないですか」
「ジャパニーズイングリッシュならぬ、ジャパニーズドイッチェか」
「そうそう、そうでしょ」
二人で笑いあった。

 夏。信州で合宿があった。午前中がパート練習、午後が合奏練習が基本だが、昼休みや夜に、少人数のアンサンブルを楽しむグループがいくつかあった。マンドラのKがRを誘って、一緒にアンサンブルを楽しんだ。私がファーストを弾き、Rがセカンド、Kがマンドラで、1年生のSがギターだ。楽しい合宿の日々が過ぎていった。
 合宿が終わると前期試験が近くなる。Rは数学が苦手だった。
「経済学部でこんな数学やるとは思わなかった。菅原さん教えて」
 確かに、文系の経済学部で、理学部並の数学があるとは知らずに入ってくる学生は多い。私は、入試では数学ができると有利と思っていたくらいだから、高校数学とはまったく違う大学の数学もそれほど苦にはならなかった。昼休みに学食で一緒に食事をし、そのあと数学を教えることにした。
「菅原さん、今日は何にします? A定? B定?」
「今日のメニューはと・・・ A定だな。Rは?」
「私は、きょうは鶏ラーメンにします」
 二人で相次いで清算をし、窓際の席に腰掛ける。学食の外には緑の木々があり、花壇に花も咲いている。少し時間をずらせば学食も混まず、食後にそこで勉強する学生もいた。あるいは、少し離れたカフェに移ることもあった。
 苦手とはいいながらも、結構飲み込みはよかった。練習と一緒だ。もともと頭のいい子なんだろう。一生懸命に問題を解く姿。毎日こうしていたいと思った。
 しかし、そのころから争奪戦が始まった。そうなって一番苦しむのは当のRであることは目に見えている。争奪戦の中で、私はRに何を伝えることもできなかった。結末は早かった。正月を過ぎて、疲れた彼女はマンドリンクラブを去った。勝者はいなかった。ただ、同学年の男と学食で一緒にいるのを見たという話だけが伝わってきた。

 臓腑をえぐるような失意までもが青春の輝きなのだろうか。関東地方は例年にない大雪に見舞われた。大学のキャンパスでも皆寒そうにコートの襟を立てて歩いている。しかし、コートの襟を立てても、心の寒さだけはどうにもならなかった。
 合奏練習の日、Rのいないセカンドマンドリンの、なんとつまらなかったことか。学生アパートに戻ると音量をあげてCDを鳴らす。ヘッドフォンでは閉塞感が増すからスピーカーで鳴らすのだが、隣の部屋に気づかって目一杯鳴らすこともできない。かける音楽は、ベートーベンのピアノソナタ、チャイコフスキーの第6番、そして、マーラーの第6番。「悲愴」や「悲劇」と名のつくものをかたっぱしからかけた。明るい音楽などとても聴く気にならなかった。

 三月。テレビニュースで東大寺お水取りの風景が流れた。火の粉が舞う二月堂。ふいに思い出した。陽子はどうしているだろう。今年の修二会にはもう間に合わないが、と思いつつメールを出したが、そのアカウントはない、と戻ってきた。奈良の住所あてに手紙を出したが、それも「宛先不明」で戻ってきた。思い切って自宅に電話したが、「おかけになった電話番号は現在使われていません。」
 どこへ行ってしまったのだろう。不安になるがたどる術がない。いや、その気になれば友人をたどって行き着けるかもしれない。しかし、それを人は未練というのだろう。

  ∞ 三 ∞

 四年生になった。
 五月の連休にクラス会が行われた。学生で自由なのはここまでだから、全員集まれるのもここまでだろうというわけだ。担任の先生も参加してくれた。会場は駅前のビヤホール。もしかすると陽子が来るかもしれない。
 定刻より少し前に会場に着いた。もちょいがいた。
「おう、久しぶり。おまえ、浪人してどうしたんだっけ」
「北大の法学部さ。だから、まだまだ学生。道真殿は就職決まったのか」
「うん、だいたいな。都内の会社」
だんだん人が集まってくる。
「あ、道真君、久しぶりね」
声に振り向いたが、陽子ではなかった。
「やあ、加藤さん、ひさしぶり。東北大だっけ。就職は決まったの」
「ううん,わたし大学院いくの」
もちょいが「婚期遅れるな」と冷やかす。
「何言ってんの,いまは普通よ」
あちこちで「久しぶり」という声が聞こえる。

「では、定刻になりましたので始めます」
幹事の齋藤が挨拶をした。
「本日は、皆さんお忙しい中、38HRのクラス会にお越しいただきありがとうございます」
とたんに「学生は暇」というやじが飛ぶ。クラスの雰囲気は全然変わっていない。
「えー、本日はなんと30人もの仲間に加え、伊藤先生と、副担任の吉田先生も参加してくださいました」
拍手が起こる。
「参加できなかった人からは、挨拶文が来ています。簡単に紹介します」
返信はがきに書かれていた挨拶文が順に読み上げられる。
「えーと、返信がなかったのが、鈴木雪乃さん、橘君で、案内はがきが戻ってきたのが石野森さんですが、どなたか連絡つく人いますか。先生はご存知ですか」
しかし、先生はもちろん、比較的仲の良かった子も消息を知らないという。何があったのだろう。「でも、悪い話は聞かないし、卒業したらまた連絡があるさ」と誰もが楽観的だった。
 クラス会は高校時代の話に花が咲いた。時を忘れるほど楽しいひとときだった。陽子がいないという一抹の淋しさを除いては。

 秋。
 大学のサークル仲間と再び奈良を訪れた。マンドリンクラブの大学間交流だ。宿をJRの駅前にとり、気の合った仲間どうしで市中に繰り出して適当な店で飲んだ。ちょっと行きたいところがあるからと先に店を出て、あの日と同じように、猿沢池から興福寺へ上がり、国立博物館の横から奈良公園へ。南大門をくぐる。鹿の声だけが聞こえる。
 二月堂の本堂が見えた。あそこに陽子がいる、なんてことが起こるはずはない、と思いつつ階段を上がる。あの日と同じ場所で奈良市街を眺める。あの灯のどこかに陽子はいるはずなのだが、それを知る術はない。大仏殿のシルエットと街の灯をまっすぐに見ていた横顔が昨日のことのようだ。
 愛なんて知らなかった。ただ、好きだった。
 それなのに、一年後の大学受験をお互いに邪魔しないことを言い訳にして距離をとっていたのを、今となっては悔やまれる。大学のキャンパスが、ふたりをそれぞれの新しい世界に連れて行ってしまった。大切にしたいのは誰だったのか、こんなあとになって気づくなんて。あのとき、はっきり言えばよかったのに。あの横顔に。

  ∞ 四 ∞

 それから五年が経った。
 東京の大手商社に就職し、仕事も順調だったが、「カノジョ」はできなかった。学生時代のRを忘れることができなかったというのでも、あれがトラウマになったというのでもない。仕事ばかりで遊ぶ余裕がなかったというのでもない。何かあるごとに「陽式部」の三文字が思い出された。
 世の中は何でもインターネット。電子掲示板からブログ、さらにSNSへとコミュニケーションの形態も変化した。デスクトップパソコンからノート、携帯電話からスマホへメディアも変化した。
 一週間前のことだ。フェイスブックの「知り合いかも」を見ていてふと思いついた。検索したらいるかもしれない。実名で検索する。比較的ありそうな名前とは思ったがそうでもない。石野陽子は芸能人、石森陽子はどこかの看護師だが、石野森は見あたらない。
 そうだ、ペンネームは。「陽式部」と打ち込む。
 あった。SNSだ。アイコンは顔写真でも似顔絵でもない。百人一首に出てくる十二単のようだ。これでは本人かどうかわからない。まさかとは思いつつ、メッセージを書いた。別人だったらまずいので、こちらの本名は書かない。では、何と書けばわかってくれるだろうか。

こんにちは。ネットで検索して見つけました。
もしかして、文芸部の石野森さんでしょうか。
十年前に二月堂に行ったの、覚えていますか。
                  道真

 返信があった。ひとことだけ。
「道雅君?」
 間違いない。なんてことだ、こんなにあっさり見つかるなんて。今どこに住んでいるのか聞くと、まだ奈良にいるという。どんなふうに変わっているだろうか。ちょうど大阪支社へ出張がある。会って話をしたい。メールを書いて約束を取り付けた。

  ∞ 五 ∞

 東の改札を出て階段を上がる。行基像の前に陽子がいた。明るい紺のワンピースに鹿色のバッグを小脇に抱えている。長い黒髪があのころよりおとなびて見える。
「ひさしぶり」
「ひさしぶりね、菅原君、あまり変わらないね。ちょっとおじさんぽくなったけど」
高校生の頃の笑顔に輝きが増している。
「おじさんはないでしょ。石野森さんは・・・・きれいになったね」
なぜここでどぎまぎするのだ。お互いに名字で呼んでいる。
「いい店があるの。ついてきて」
ほとんど黙ったままあとをついていく。
 駅前からひがしむき商店街を抜けてもちいどの通りへ。エスカレータを上がったところに「晴朗邸勝手口」があった。
「ここ、地酒がおいしいのよ」
 ドアを開けて入ると正面がカウンターになっている。
「あら、先生、今日はご同伴?」
「高校時代の同級生なの」
 左奥の四人席に座る。おかみさんが、箸置きを選んでくださいといって箱を持ってきた。いろいろな箸置きが入っている。その中のひとつを選ぶ。
「先生はこれよね」
おかみさんはその中のひとつを陽子の前に置いた。すっかりなじみの客なのだ。
「佐容さん、みむろ杉、入った?」
「昨日入りましたよ。すぐ出しますか」
「そうね、ひとまずはいつもの百樂門で。あなたは?」
「じゃあ、僕もそれで。」
 百樂門は葛城酒造、みむろ杉は大神神社近くの今西酒造。話には聞いていたが飲むのは初めてだ。
「新しい酒を先に飲むんじゃないの?」
「うん、いつものを飲むと今日のコンディションがわかるから、それから味わいたいの」
「へえ、飲める口なんだ」
「そうでもないわよ」
高校時代の彼女からは考えにくいことだった。
「先生って、学校の先生してるの?」
「そう。といっても、教育大。奈良女を卒業して、奈良教育大の大学院に入ったの。そのまま、いまは助教」
それで「先生」というわけだ。

 この店では、お通しも自分で選ぶ。そのお通しとグラスが来た。
「佐容さん、生麩田楽ふたつね」
メニューも見ずに注文している。
「じゃ、再会を祝して」
そう。信じがたい再会。聞きたいことが山ほどあるが、それらはどれも不安に彩られている。
「菅原君は東京っていったっけ。で、今日は大阪?」
菅原君のままだ。
「そう、商社なんだけど、なんと、営業システム関係で、コンピュータさ」
「あー、菅原君、数学できたもんね」
う〜ん、この仕事で数学はどうなのかわからないけど。菅原君のままか。そうだろうな。
「そういえば、陽式部のペンネームはずっと使ってるの?」
「ええ、大学では使わなかったんだけど。SNSを始めるにあたってハンドルをどうしようかと思ったときに思い出して使ってる。2年くらい前からかな。」
「本名で探したけど見つからなかったので」
「本名ね。前はブログやってたんだけど。ちょうどはやりだしたころ。でも、全部削除したの。」
やはり何かあったのだ。

「四年生の時にクラス会をやってね、30人も集まった。」
「え?そうだったの。そうか。うちは父が転勤で引っ越しちゃったし、メールアドレスも変えたし、それで連絡が来なかったんだな。みんな元気だった?」
メールアドレスを変えたという連絡を、誰にもしなかったのだろうか。
「うん、もちょいは浪人して北大。法科大学院を目指すって言ってたけどどうしたかな。加藤さんは大学院に行ったらしいけど」
しばらくはクラスメートの話。といっても、彼らの卒業後を皆知っているわけではない。
 戻ってきた手紙のことを思い切って聞いてみた。
「ごめんなさい。いろいろあって」
 私にも話せない学生時代がある。あまり深くは聞かない方がいい。
「でも、説明するね。佐容さ〜ん、みむろ杉、お願いね。それとスペアリブふたつ」
「あ、無理に言わなくてもいいよ」
「もうだいじょうぶ。」
大丈夫ってことは、やはり何かつらいことがあったんだ。

「え〜と・・・ そうだ、道真殿から二月堂にいかないかってメール来たよね。断っちゃったけど。」
道真殿になった。
「大学のサークルが楽しくて。古代史研究であっちこっち行って。二年生の時に、京都の大学の人とそれで知りあって」
みむろ杉がきた。
「同い年?」
「いや、助手とかいってた。博学な人で、少し好きになったんだけど、それが意外な展開よ。」
口元が笑っている。少し心が揺れる。
「ちょっといやなことがあって、メールがきても何回か断るようになったの。」
ちょっといやなこと。何かされたんだろうか。しかし聞くわけにもいかない。
「そしたら、ある日、アパートの前にいるじゃない。」
「え? ストーカー?」
「そうね。こっちが先に気がついて、向こうは気がつかないみたいだからそのまま友達のとこ行ったの。逃げたわけ。で、またメールよ。」
「サークルは?」
「やめたくなかったから、イベントで彼が来るときだけ、なんとか理由つけて休んだの。でも、そしたら、またメール。アパートは女子の学生会館だったから、普通は中に入れないじゃない、でも、怖いからそこを出て、ケータイも機種変えて、メルアドも変えて。そうそう、ブログも全部消して。大学に行くときも周りを用心して、それでも心配だから、髪を切って、茶髪にして、スカートが好きだったんだけどパンツルックにして、サングラスかけて。今思えば、変装よね。一度、大学の構内にいたことがあるけど、こっちには気がつかなかったみたい。」
あっけらかんと話しているが、そこまでするとは相当のことがあったのだろう。
「ふーん、誰か助けてくれる男はいなかったの」
「だって、女子大だし」
「そうか」
「そのうちあきらめたみたいだけど、それから男の人が怖くなっちゃて。もう平気だけど。教育大に移ってからやっと髪も戻したし。でも、しばらくは色つき眼鏡してた。」
「大変だったんだ」
「うん、ちょっと痩せた」
ちょっと痩せたって、今だから笑って言えるのだろうけど、そのときの不安たるや想像もつかない。そんなことも知らず、私はRに夢中だったのだ。
「で? 道真殿はどうなのよ。誰かいい人見つけた? もしかしてもう結婚してるとか」
「いや、ちょうどその頃になるのかな、振られた」
陽子は笑って話すのに、こっちは笑えない。学食でのRの笑顔がフラッシュバックする。
「ふ〜ん、その様子だと、かなりだったね」
「ごめん」
「あら、謝ることないわよ。詳しく話さなくていいから。で、今もいないの?」
「まあ、いいじゃん」
まったく。陽子はかなりつらかっただろうに明るく話している。自分ははぐらかす。

 ドアが開いて客が来た。若い三人組だ。右奥の席はすでに埋まっている。カウンターではなく四人席でというので、となりのテーブルに座った。ついでに佐容さんが聞いてきた。
「先生、この春鹿さんの新しいお酒、どうです?」
「へえ、じゃそれお願い。えびの春巻きも。道真殿も?」
「あら、こちら道真さんといわはるの?」
「そうよ、菅原道真」
「あ、いえ、ニックネームですから」
 いいタイミングだった。陽子の話は聞いたくせに、こちらの話はしたくない。恥ずかしいというより、陽子にすまない気持ちだ。話は、高校時代の思い出や、いまやっていることに移った。

 春鹿を呑み終えて、話もだんだん尽きてきた。
「わたし、もうお茶漬けにするけど、道真殿は?」
「じゃあ僕は古代米のおにぎり。」
なんか、陽子が取り仕切っているみたいだ。そして、すっかり道真殿になっている。

「佐容さん、ごちそうさま」
佐容さんは、紙のメモを見ながら、6400円ですと言った。計算書はないが、値段はメニューに全部書いてある。明朗会計だ。支払いをして外へ出ると、陽子が「割り勘ね」と3200円をよこした。
「あ、いいよ、このくらい」
というのに、手を取って札と小銭を渡す。陽子の手の温もりが伝わる。

 言わなくても行き先は決まっているようなものだ。猿沢池方面へ歩く。土産物屋はもう店を閉めはじめている。明かりがついているのはほんの一、二軒だ。興福寺にあがる。五重の塔がライトアップされている。付近は工事中だ。
「金堂が再建中なの。こっちから行きましょう。」
 とりとめもない話をしながら、国立博物館の前を抜けて奈良公園へ。南大門をくぐる。遠くから鹿の鳴き声が聞こえる。

「陽子さん、修二会には行ったの」
「もちろんよ。この仕事する上でも見ておかないと」
「僕はまだなんだ。テレビの旅番組だけ」
「十年前に約束したわね」
「いや、約束かどうか」
「いいわよ、今度案内してあげる、いい場所とらないとね」
 本堂の階段を上がる。奈良市街の灯に、大仏殿のシルエットが浮かびあがる。十年前と同じだ。
「変わらないね」
「そうよ、奈良だもの。そうでなきゃ」
 二人の肩が触れる。十年前にはなかったかすかな柑橘系の香りがする。まっすぐ前を見る横顔は十年前と同じだ。いや、十年前より素敵になっている。

 思い切って聞いてみた。
「僕たち、やりなおせるかな」
「え?」
返事が笑っていた。視線は市街地に向いたままだ。
「やりなおすも何も、何もなかったじゃない。あの頃」
屈託のない返事だった。
「だって」、僕は君が、と言いかけて言葉を呑込んだ。
「ふふ、変わってないわね、そういうとこ。不器用なんだから」
そうだ、その不器用で学生時代のあの恋を消してしまったのだ。
「でも、あなたのやさしさも変わってなくてよかった」
何と応えればよいか一瞬迷った。
「ひとつ、聞いていい?」
「何?」
「もしもSNSで僕が見つけなかったら会えなかったよね」
「そうね。でも、知ってる? こういうのを天の配剤っていうのよ。あなたのニックネームでメッセージが来たとき、わたし、思ったの。ああ、これを天の配剤っていうんだって」
陽子が頭をもたせかけてきた。
「ちょっと呑みすぎたかな。いつもは二杯なんだけど。」
どうすればいいのか迷う。
「きょうと〜 おおはら さんぜんいん」
前を向いたまま、ゆっくりと小さなソプラノで歌いだした。
「ねえ、どっちだと思う?」
しばらく間があく。
もたせかけてきた頭を支えるように、肩に手をかけた。
「今ならわかるよ。陽子さん。」


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女ひとり 永六輔 いずみたく
まほろば さだまさし

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マリナ油森さんの企画 #書き手のための変奏曲 にのって3つめ。

主題  :奈良の夜景 愛なんて知らない
第一変奏:奈良の夜景 愛なんて知らないR 主題を今風に書き換えたもの
第二変奏:奈良の夜景 十年の後 十年後のエピソード
第三変奏:奈良の夜景 第三変奏曲 主題と第二変奏をまとめて 縦書き

第三変奏で書き足りないと感じていたので,3400字から12000字超に。この経緯については改めて書きます。過去作へのリンクもそちらで。