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春馬のいない世界で生きる

それは突然だった。
日本でこれだけ売れている俳優が突然死を選ぶことは非常に稀で、誰もが起こり得ないと思っていたことだった。日本中が今、喪失感に苛まれている。

春馬は留学をして英語の勉強も頑張っていたと記事で読んだ。
俳優業だけでも忙しかったと思うが、更に自分がなりたい姿を追い求め努力を続けていた。つくづく時間がないなんて、ただの言い訳でしかないことを思い知らされる。

春馬が亡くなった後に、一般の方も含め彼と会ったことがある方のいろんなエピソードがTwitterに溢れた。彼がいかに素晴らしい人間かという内容ばかりで、見えないところでの彼の努力についても多く語られていた。

春馬は、自身が実践していた英語の勉強法を提唱している方に自ら「尊敬している、会いたい」とDMをしていて、更には長く交流が続いていたようで、そこにも彼の人柄や努力の軌跡が感じられた。

なりたい姿、手に入れたい英語力、追い求め紡ぎあげてきたものを全て手放してでも開放されたいと願う辛さとはどんなものだったのだろうか。

春馬の死は2年前に自殺した世界的DJのaviciiの死を彷彿させた。人気者で仕事もできて、傍から全てを手に入れた成功者だ。でもaviciiしかり、彼にしかわからない苦悩があったのだと思う。

どんなに悩んでいても、他人から見ると恵まれている、何を悩むことがあるんだ、と思われること自体が大きなギャップとなり、それもまた本人を苦しめていたのかも知れない。芸能界を辞めて海外に行ったらよかったのに(成宮寛貴スタイル)と思う人もいたと思うが、それすらもできないほど彼が追い詰められていたのかと思うとその苦しさは計り知れない。

どうして止められなかったのかと残された人たちはこれからも苦しむ。
結果は周囲からしたら残念なものになったかも知れないが、彼の苦しさが他人にはわからないのと同様に、彼が下した決断、選択は彼のものであり、彼の行動は彼のために遂行されたのである。自殺が不幸だとか、何が原因だとか他人はジャッジしたがるけれど、どうか春馬が苦しみから開放され、春馬の望んだ世界で春馬らしくいられることを願う。

これは春馬の願いが叶ったとも言え、不謹慎ではあるが、春馬の決断を讃え、これからも春馬がいない世界で春馬を想って生きる。


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