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『すずめの戸締まり』を2回観てようやく良さに気づいた

はじめに


 みなさんこんにちは。ついに新海誠監督最新作、『すずめの戸締まり』が公開になりましたね。みなさんはもうご覧になられたでしょうか。
 「ついに公開になりましたね」なんて書いてはおりますが実はこの私、IMAX先行上映会のチケットを運良く手にすることができまして、世間よりすこ~しだけお先にこの作品を鑑賞できました。ラッキー。
 人より早く観れた分、思ったことなんかもじっくりしたためたいと思い筆を執っております。どうぞお付き合いください。と言いつつ公開日の11月11日にも観に行ったのでそれも踏まえた感想を書いていこうと思います。

 あ、書くまでもないことかもですが、映画を観ていることを前提に書くのでネタバレはバンバンあります!お話の内容も説明を端折ったりすることもあるかと思いますが、何卒ご了承を。

3.11を描いたことについて


 さて、本題に入りますが私が視聴した後にまず感じたのは「もう少し咀嚼しないと評価がしづらい」ということでした。
 私が新海作品を好きになったきっかけは2019年公開の『天気の子』だったのですが、その時は劇場で観た後、かなり真っ直ぐに「素晴らしかった!」と思えました。一方で『すずめの戸締まり』にはその時のような真っ直ぐな感情はあまりなく、「これはどう評価したらいいのだろう」という気持ちが先行し、思考が立ち止まってしまいました。
 お話の好みの部分などもあるでしょうが、やはり一番ネックだなと思った部分は2011年3月11日に発生した東日本大震災を取り扱っている部分でしょうか。映画内では「3月11日」の日付が絵日記に書かれているくらいの表現だったかと記憶していますが、入場者プレゼントの『新海誠本』記載のインタビュー等を見るとはっきりと「3.11を描いている」というような内容が記されています。
 1回目に観終わったすぐのタイミングでは、この「現実に起こった災害を用いてフィクションのお話を作っている」という点がど~~~~~にも腹落ちしなかったんですよね。前からなんとなく個人的に考えていたのが、震災などの大きい社会的出来事を映画などのエンタメで伝承しようとすると見え方や伝承のされ方が固定されかねないのではないか?ということなのですがこの懸念が『すずめの戸締まり』にも当てはまってしまうのではないか?そういう考えがまず頭をめぐりました。

『すずめの戸締まり』は伝承のための映画なのか?

 仮に『すずめの戸締まり』を3.11を伝承するためだけの映画とするならば、その機能はあまりに不十分だと感じます。地震を起こしているのは「ミミズ」とかいうファンタジー的な存在だし、そもそも先にも書いた通り映画内ではっきりと「東日本大震災」とか「3.11」とかいうワードが登場しているわけでもないんですよね。新海監督のインタビューでも記述がありましたが、世代によってはこの映画を見ても3.11のことが思い浮かばない人もいると思います。
 つまり『すずめの戸締まり』は3.11での出来事を語り継いでいく伝承のための映画ではなく、あくまでエンタメとして、娯楽のための作品と捉えるほうが自然なのではないかと思います。そうなると先に記した「伝承のされ方が固定される」といった懸念には当てはまらないのではないか、そう思うわけです。とりあえずはそのような考えに至りました。
 しかしそれでもやはり「3.11を取り扱った作品」であること、これも事実なわけです。

なぜ3.11を描いたのだろうか

 では何のためにこの作品は震災を取り扱ったのか。正直なところ完全にしっくりきているわけではないですが、インタビューなどをみるとやはり「震災で失われたものを悼み、そして震災が起きてからのこれまでを肯定する」ためなのかなぁと思います。
 作中で出てくる廃墟の数々では、そこが廃墟になる前の賑やかさが映し出されます。それがまさに場所を悼んでいるような行為に見えましたし、終盤のシーンでは明らかに3.11を意識しているんだろうな、というような場所も出てきました。なくなってしまった場所について、かつてそこにいた人々、生活、物、そしてその場所そのものを弔うというのがこの作品のテーマの1つなのだろうと思います。

 そして震災が起きてからのこれまでを肯定するということ。まずぱっと思い浮かぶのが母親を亡くしてからの主人公・鈴芽の12年間ですね。最後の常世でのシーン、幼い鈴芽が母親がいなくなった事実を理解できず押しつぶされそうになっているところを、高校生の鈴芽が背中を押してあげるシーンですが、まずこのシーンに代表されるのではないかと思います。12年間しっかりと生きて、生活をし、暮らしをしてきたそのことそのものが過去の幼い彼女を励まし、さらには成長した鈴芽自身もその事実に気づかされ12年間を肯定できた。1回目に観たときは震災を描いたことへの処理で頭がいっぱいになっていたせいでそこまで印象に残っていなかったのですが、2回目に落ち着いて観たときのほうが心にグッと刺さりました。

 それともう一点。母親代わりに鈴芽を育ててきた叔母、環さんについて。亡くなった姉の娘を引き取ったことにより、彼女の半生は姉の娘である鈴芽に半ば捧げるような形になってしましました。高速道路の休憩場のシーンでは心身の疲労からか(またはサダイジンの魔力?からか)その心にあった黒い部分を鈴芽にぶつけてしまいます。かなりショッキングなシーンでしたが、その後の自転車に乗るシーンでの、

心の奥では思っていたこともある。でも、それだけじゃない(意訳)」

 この言葉………!これが個人的にはグッときて、淀んだ気持ちもあったけれどもちろん2人での大切な時間もあり、それら全部をひっくるめて環さんが彼女自身の12年間を肯定できたことがわかる、いいシーンだと感じます。


 また、先ほど伝承のための映画でないと書きましたが、震災が風化していくことへの警鐘を鳴らすという目的も多少はあったのではないかと思います。主人公の鈴芽は高校生で、作中の災厄についても「(幼すぎて)あまり記憶がない」というような表現がありました。新海監督も『新海誠本』の中で自身の娘について「もうすぐ中学生になる彼女にとって、震災は教科書の中の出来事でしょう。」と話しており、後の世代に語り継いでいかねばならないという気持ちはどこかにあったのでしょう。
 また、作中では緊急地震速報が流れるシーンが頻繁にありますが、これに対するキャラクターや群衆の様子も妙にリアルです。とっさに命を守るような行為をするわけでもなくただぶら下がった蛍光灯や屋外の電線を見て「お~…揺れてる………」みたいな態度をとる人々だったり、大きめに揺れている最中は不安げな様子を見せるものの揺れが収まると平然と日常に戻っていく人々だったり…。まぁ「危機感がなさすぎる!」というメッセージではないでしょうがなんとな~くふわっと今の世間にある空気感の危うさのようなものも表現したかったのかな~と思います。

おわりに

 ………と、ここまで書いてきましたが、震災を描いたことについてはどう評価してよいか自分には判断がつかない部分が多いですね。個人的な話ですが、3.11がまだ自分の中では完全に過去のものとして認識されてないからこそ、フィクションのなかに落とし込まれる違和感のようなものがあるんだろうと思います。まぁ、こういう感情が生まれている、というのも1つの感想としてあってもいいんじゃあないでしょうか。

 もちろん作品としての面白さはちゃんとありますし自分もそこに関しては「観てよかった!」と心から思えます。1回目ではぼやぼやっとしていた感情も2回観たことである程度まとまり、制作陣がこの作品で伝えたかったメッセージやそこに3.11を絡めたことの意味も自分なりに受け止めて考えることができました。そして画作りなどのクオリティもいつもながらに素晴らしく、背景の描写や何気ないシーンでもめちゃくちゃ動くキャラクターが印象的でした。鈴芽と千果の夜のシーンすごすぎ。そして無機物である椅子をあんなにもかわいらしく生き生きと動かせるのはすごいですね。

 あとちょっとやっぱ変態チックな部分もちょっとあってよかったです。「椅子になった男が女の子に座られたり踏み台になったりする」とか………。キモ~~~(褒めてる)。あと個人的には靴のまま水に入ったときにぷくぷくっと出る気泡の表現とかにも若干のフェチを感じました。


 はい。とりあえずの感想としてはこの辺にしておきます。かなりとっ散らかった文章になってしまった気がしないでもないですが、まぁいっか。
 感想を書いていて改めて感じたことですが、この映画絶対に"今”観たほうがいいですね。現実の時間軸と作品の時間軸がリンクしている部分があるので、今観て感じられることは本当に今しか感じられないことかもしれません。何年か経った頃には感じることが変わっているかも………?そしてそもそも映画館で映画を観れるっちゅう体験は貴重ですしね。皆さんもぜひ。でもこれを読んでる人はおおかた鑑賞後なんだよな~~~!!!

 というわけで本当に終わりです。またね。


※執筆にあたり、『すずめの戸締まり』パンフレットならびに入場者プレゼント『新海誠本』の内容を参考にしました。

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