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車酔いと絶対音感と聞き耳頭巾について

自分の感じている現実と他の人たちが感じている現実は当然同じではない。そして自分には自分の現実しか分かっていない。

例えば車酔い。私は小さな時から車に弱く、普通の市内バスに十数分乗っただけで気持ちが悪くなっていた。社会科見学などの学校行事では長時間バスに乗らなくてはいけないのがとにかく苦痛で、熱でも出して休めたらいいのに、といつも思っていた。楽しみにしているクラスの友達がその時だけはエイリアンの集団のように見えた。もちろん大人になったらだいぶましになり、自分で運転していればジグザグの山道も全然平気だ!ということに気がついてびっくりしたが、それでも長時間の車移動はあまりしたくない。

例えば絶対音感。幼児から音楽を習い始めた人たち同様、私も絶対音感が「あった」。音叉なしで昨今話題の(笑)440HzのA4音をとる(と音楽関係者は言います)ことが出来た。これは単に訓練されたからなのだけど。絶対音感というのは、聞こえてくる音高を言葉として学習しているんじゃないかと思う。「しゃかいかけんがく」というフレーズを「しゃ、かい、か、けん、が、く」という風に聞き取れるようになるための訓練だと思う。昔はどんな音楽を聞いても、そのメロディーが「ドレドレミファソラド〜」という風に音名で聞こえていた。正確には「ドレドレ」という言葉通りの音で聞こえていた訳ではなく、(私の場合だけど)ド=C4は普通の人が発音する「ド」の濁点がちょっと薄くてなおかつ母音がはっきりしない、でも音高はカミソリのようにぴったり、という感じだった。アカペラで音程をとったりする時にも、音階の各音がぴしっと直角で構成された透明な階段のようにしっかり感じられていた。

絶対音感については本なども出ているらしいし、人は自分にない能力や知らない世界については時に好意的に評価してくれる。でも絶対音感が言葉のようなものだとすると、問題になるのは「しゃ・かい・か・けん・が・く」と聞き取れるかどうかではなく、「社会科見学」の意味が分かるか?の方だ。実際、頭でっかちだった私はソルフェージュは得意だったが、先生に「もっと表情をつけて」と言われるのが一番苦手だった。キーを押して音が出る構造の機械で強弱を付けられるのは分かるけど、「表情」ってなんですか?といつも思っていた(笑)。絵画じゃないんだから、白黒の鍵盤に表情なんて付きません〜、と内心反抗するティーネイジャーだった(先生、ごめんなさい。本当にお世話になりました。感謝しています)。つまり「社会科見学」の意味も分からず「シャカイカケンガク〜」と弾いていたと、いうことだ。

さて大学に入って、クラシック以外の不思議な音程・音色の音楽をやり始めると、小さい頃から訓練された絶対音感が少しずつ「絶対」ではなくなっていく。最初のうちは西洋音階から外れた音程の楽器を長時間弾いたりすると、車酔いのようなめまいのような気持ち悪さになったこともあったけど、外国語を学んでいる時みたいな挑戦気分でやっているうちに、段々に音程ぴったりじゃないことにも慣れてくる。逆に西洋クラシックなんかの、音階や音程のグリッドがぴしっとしすぎた音楽に窮屈さを感じるようになる。その頃は大学の図書館にあるジャズやワールドミュージックのCDを片端から聴いていた。何を言っているか分からない外国語を聞くように。

ジョグジャカルタに留学中は画家志望のデンマーク人の女の子と同居していて、大のクラシック・ロック好きだった彼女のカセットコレクションばかり聴いていた。コレクションとか言っても、靴箱大の段ボール箱にむき出しのカセットが一杯に入っていて、そこに手を突っ込んでキャンディを取り出すように一つ取ってはテープデッキでかける、ということを一日中やっていた。もちろん私はグループ名もタイトルも知らないし、歌詞も当然聞き取れない。後になってあれはツェッペリンだとかザッパだとかスーパートランプとかピーター・ガブリエルだったらしい、というのは理解したけど(音楽は覚えてるから)、でもその時は何であれ単に流れてくる音を全部ひっくるめてただの音楽として聴くので十分楽しかった。

さて、外国に実際に住みながらそこの言葉を学んだ人には経験があるかと思うけど、外国語ってある日突然「分かる」ようになる日が来る。今まで「スラマット・マラーム」と聞こえていたものが、ある日突然「Selamat malam こんばんは〜」と聞こえるようになる。私の場合は、うろ憶えだけど確かテレビのアナウンサーの言ってる事がいきなり分かるようになって(それまではカタカナで聞き取って頭の中で翻訳していた)びっくりした気がする。それからは「こんばんは〜、皆さんお元気ですか?今夜はムングナイ・プルクンバンの文化の話ですが〜」みたいに意味が分かる中に知らない音単語が混ざって聞こえるようになった気がする。ネイティブスピーカー日本語脳がとうとう(部分的にだけど)外国語に場所を明け渡した瞬間だと思う。

それと同じように、そのデンマーク人の子と暮らし始めて半年ほど経ったある日、朝目が覚めていつものようにカセットをかけると、聴こえてくる音楽が何を言っているのかが分かるようになっていた。その時は心底ぶったまげて、まるである日突然動物の言葉が分かるようになった聞き耳頭巾のおじいちゃんかドリトル先生になった気がした。それから数日間は興奮し通して、今までも散々聞いたカセットをあれこれ取っ替え引っ替えかけては、どれも「こんなこと言ってたのか!」という気分でワクワク聴いたのを覚えている。

ただ残念なことに音楽は言語ではないし、その時私が理解出来た!と思ったことを言語で説明することは出来ない。でも私が私なりに音楽の言ってることが分かると思うようになってから、私はお芝居の音楽を作る機会をもらうようになった。最初は友達の舞台の手伝いからだったけれど。

初めてきちんとした舞台で全部オリジナルで舞台音楽の仕事をさせて頂いた時、尊敬する演出家が役者さんに長い独白のダメを出しながら「ほら、音楽をよく聴いて。音楽が全部言ってるんだから、それを言葉にすればいいんだよ!」と言って下さった事があった。ものすごく嬉しくて、ちゃんと「翻訳出来ていた」ことを褒められたみたいで誇らしかった。それからさらに舞台音楽をやりたくなるよう背中を押してもらった言葉だった。

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