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あるミュージシャンの肖像 チェット・サラシーノ

俺はね、結局許されたかったんだよ。母親にも、父親にも、故郷にも


 一つの町のことを生涯歌い続けた歌手。それがチェット・サラシーノだ。

 彼は生まれ育った町のことを憎み、そして愛し続けた。少年時代に町を出て(どうやら中学校も卒業していないようだ)、ありとあらゆる仕事をして彼は生き続けた。なぜ町を出たかについては多くの評論が残っているが、大方の想像通り、両親との不和につきるようだ。日頃から義理の弟ばかりが寵愛されていると感じていた彼は、ある決定的な事件で、家を出ることを決意した。そして愛に満たされた「約束の地」を探すかのように、各地を転々とする人生を選択した。その姿をヘディ・ウエストの名曲『500マイル』の歌詞に重ねる向きも多い。

 だが、そもそも彼は、弾き語りの歌手には不可欠とも言えるギターを弾くことさえしなかった。彼が持つ自らの思いを伝える術。それは鍵盤を弾いて、歌をうたうことだけだった。

 ホーボー=放浪者だから、定まったすみかなどない。当然、ピアノを持つことは不可能だ。だから、彼は、たどりついた町の酒場に入り浸り、顔なじみになって隅で埃をかぶったアップライトピアノを使わせてもらう、というまどろっこしいやり方で演奏をし、興が乗れば歌をうたった。

 あのクソみたいな家で、唯一俺が安らいだのはピアノを弾いているひとときだけだった。

 晩年のインタビューで彼はそう振り返ったことがある。

 田舎町の名士の家で幼少期を過ごした彼には、自由に弾いていいピアノがあり、まともな練習をしなくてもショパンのピアノのための小曲くらいは上手に弾いて見せた。「勉強」「訓練」を極端に嫌がったため、音符はほとんど読めないが、音感が抜群に良かった。

 俺はクラシックは好きなんだ。ただ、誰がどの曲を書いたかとか全然わからないんだ。母親が日がな1日かけているレコードを聴きながら、その曲をピアノで弾くのが俺の日課だったんだ。

 しかし彼のうたう曲はクラシックとは似ても似つかぬ、まさにカントリーミュージックに分類されるべきものばかりだった。

 ティーンエージャーの頃からブルーカラーたちと交わる日々の中で、それらを耳にして、取り込む機会は自然にあったはずだ。だが、それらの音楽のどこに惹かれて、自らもうたうようになったのか、彼は生涯語ることはなかった。

 だってあんたいま俺の曲を聴いてたんだろ。それで十分じゃないか。

 晩年、半ばタブーとなっている質問を果敢に投げつけた若手の女性インタビュアーは、苦い微笑みとともにそう答えられた。

 多分、チェットにとって、カントリーミュージックは、掛け値なしに「それだけ」のものだったんだろう。いつのことかはわからないが、彼が何かを表現したい、と思った時、偶然、彼の耳に入ってきた。それだけのだったのだ。

 だが、耳に入った音を彼は大切に自分の中に取り込み、育て、独自のものにしてから吐き出した。

 チェットの代表曲『コヨーテの朝』は、センチメンタルなイントロから始まり、リーディングポエトのような静かで、滑舌の悪いつぶやきが続く。

 日々のほとんどをうっくつして/歩く老いたコヨーテは/びしゃびしゃぬれる草むらで/体をぶるりとふるわせた。/さあ、もう決めたんだ/歩き続けるしかないじゃないか/抜けてきた街のうねる鼓動を/雲の間にさす光のことを/向日葵咲く白い午後を/記憶の底にしまい続けて。

 彼にしては珍しく長い歌詞は、老いたコヨーテの回想に終始する。老コヨーテは言うまでもなく、チェット自身の投影だ。そして、捨ててきたはずの、帰ることのない、町の美しい光景をひたすら並べ立てていく。

 あるいはウディ・ガスリーのように、行く先々で女性と浮名を流し、即興で歌を作り続け、ついにはアメリカの準国歌とも呼べる曲を作る「要領の良さ」あるいは「器の大きさ」があれば、チェットはスターダムを駆け上がったかもしれない。実際、彼が残した曲は、数多くのミュージシャンにカバーされている。だが、不思議なくらいオリジナルの彼の存在にスポットライトがあたることはない。

 理由は簡単だ。彼の弾き語りは、一言で言えば、華がなかったからだ。しかも分類がしにくい。鍵盤の弾き語りでカントリーのヒットチャートを駆け上がるのは至難の技だし、だからといって、R&Bやポップミュージックとして聞くには、地味すぎた。だから、その良さを知るのは、音楽の玄人以外は、酒場の酔いどれたちだけだ。彼らだって翌朝にはチェットの曲なんて忘れている。そういえば、昨夜は随分懐かしい気分になって酒が進んだな、彼の曲はそんなくらいにしか取り扱われていない。

 でも悪くないじゃないか。夜に、涙を流して聴いてもらって、朝になったらさっぱりと忘れて気分良く仕事に出て行ってもらう。夜ってのは、昼の疲れを癒すための時間だ。俺の歌は、夜の歌なんだよ。

 そう語る彼も、また夜に自らの満たされぬ思いを癒してもらい続けた。一言でいえば酒癖が悪く、行く先々でトラブルを起こした。彼の音楽に惚れて、アルバムを作ろうと群がったレコード会社の担当者たちは、その延々と続く恨み節と時折振るわれる暴力(といっても彼はごく非力だったので、大した肉体的被害はなかったが)に辟易した。

 俺は、こだわりの人なんだ。こだわりってわかるかい。ひとつのことに執着するってことだ。俺は手放せないものがありすぎるんだ。ピアノだってそうだ。俺はギターなんてクソみたいな楽器全然認めない。でもさ、執着がなきゃ、愉快に毎日暮らせる。歌なんてうたわなくても済むくらいにね。

 女っけもなく、粗末なモーテルを転々とし続けたチェットは、コヨーテのように鬱屈はしていたが、ピアノが弾ける限り、絶望はしていなかった。いや、むしろ楽しんでいた。場末の酒場で、それまで騒いでいた酔客たちが彼の曲に聞き入り、終わるやいなや、一杯奢らせてくれと周りに群がるとき、彼は嬉しそうに微笑んでいた。その後酔って、ろくでもない結末になることも多かったのだが。

 晩年、音楽プロデューサー、ダン・コクチェフの粘り強く交渉に折れる形で残した、たった一枚のスタジオアルバム『サンフランシスコ』は、その投げやりな題名(ダンがレコーディングの少し前に遊びにいったという理由だけでつけたらしい)に相反して、深みのある曲が続く。

 最後の曲は、彼にしては珍しく、カバー曲だ。しかもフーの「A Quick One While He’s Away」というポップソングだ。ご存知の方も多いだろうが、これは複雑な幼少期を送ったピート・タウンゼントの実体験を元に作られた曲で、最後は”You are forgiven”、すなわち「あなたは許された」というフレーズの連呼で終わる。

 俺はね、結局許されたかったんだよ。母親にも、父親にも、故郷にも。でもできなかった。それは俺のこだわりのせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、いいじゃないか。俺は少なくとも、生きて、歌い続けた。

 チェットは、アルバムのプロモーションのインタビューでそう語っている。アルバムを出して、2年後、彼は病院のベットで息を引き取った。最後まで、故郷のバーモント州の小さな町を再訪することはなかった。

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常緑編集室
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