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I,ROBOT

 少し前「お前はロボットみたいだ」(意訳)と、雑談の折に友人から言われた。

 そうは言われても、涙はオイルじゃないし、叩いてもネジは落ちてこないし、ドラ焼きもそこまで好きではない。いや、きっとそういう事じゃないんだろう。感情の起伏が少ないとか、自我が薄いとかそういう皮肉であって、いわゆるクラスでちょっと変わっている女の子に「不思議ちゃん」と名付けるのに近いニュアンスでしょうね。

 そう考えると、強ち友人の評することも間違っていないのかもしれない。人前で泣いたり、腹を抱えて笑ったりするのは恥ずかしいことだという致命的な認知の歪みを抱いて生きている自分が、他人から見て感情の起伏が少ない血も涙もないロボットに見えてもまあおかしくない。

 ちょっとまってくれ、何を自分で納得してるんだ。〈〈私はロボットではありません。〉〉──── webサイトにログインするときにたまにやる信号機や電柱のタイルを選ぶのは確かに苦手だけど、ベイマックスほど優しくないし、せいぜい星新一のきまぐれロボットが関の山だ。

 冗談はさておき、アイザック・アシモフが『わたしはロボット』の中で定義したロボット三原則では、「人間に危害を加えてはならない」、「人間の命令に従わなければならない」、「自己を守らなければならない」とされている。なるほど、別に涙がオイルでなくとも、叩いてネジが落ちてこなくとも、ドラ焼きがそこまで好きではなくてもいいのか。よく知らないし知りたくもないけど、最近多様性が流行ってるらしいし、性自認ロボットとして生きていこうかな。

 でも、感情の表出が苦手なだけであって、確かに感情はちゃんとある。このくだらないnoteを読んでくれている人がいることに、人並みの承認欲求と嬉しさと恥じらいを抱いている。例えどこかの少年革命家が俺をロボットだと言ってもちゃんと動画に低評価押します。嘘です。

 でも、青い猫型ロボットが未来から救いに来なくともきっと大丈夫。映画を見て感動してるのに涙が出ない時に隣で泣いてくれたり、理不尽な事をされても怒れない時に怒ってくれたり、楽しい時に笑ってくれたり、そうやって不良品なロボットの代わりに泣いて怒って笑ってくれる人たちとなら、この深い不気味の谷もきっと越えられる気がします。