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#イールの千字百本ノック 52日目 憂鬱な新学期

 新学期が始まる。

 勝負の3年次へと突入する。

 ひどく憂鬱だ。つくば市はあいも変わらずのどんよりとした天気で、気は塞ぐばかりである。

 それでもなんとか履修登録を開始した。頭を絞って30単位分の履修を組んだ。あと10単位、何を学ぼうか。それさえもとっても退屈で、もう何も考えられそうにない。

 希死念慮が頭を過ぎる。それも、過去のようなはっきりとしたディテールを伴って。それでも、薬のおかげで、生きたい、死にたくないとも思う。なんとも、矛盾した感情だ。

 例によってこの文章を、精神科の待ち時間を使って書いている。薬は頭を鈍らせてくれる。鈍った頭では、明晰な思考を成せない。だから、死にたいなんてことは、一切頭に登ってこなくなる。これは明らかに恩寵である。毒饅頭のような恩寵だ。

 薬でハッピーになる、というのは少々安直すぎる言い回しだが、実際に、今のわたしは、そうなっている。昔は易々と書き上げられた1000字も、今では語彙の限りを尽くさなければならない。それなのに、文章のレベルは日々落ちていくばかりである。昔は思慮できたはずの繊細な言葉は失われ、後にはただ、日常の世間話だけが残った。

 何度も述べている考察ではあるが、精神科とは健常者工場のことである。たった数分の診療で、現代医学の粋を尽くした化学的なカプセルが渡される。それは不思議なくらいに「わたし」を創り変えていく。まるで、神のように。

 たかだか数ミリグラムの物質が、人間の神聖なる脳を創り変えていく。いともたやすく行われる侵略は、どうやらこの世界において善となっているらしい。

 レールは次第に強固となっていく。外れる選択肢は消去され、進行だけが提示される。

 それは至極当然のことである。死ぬことよりも、生きることの方が尊い。生きることは、戦いだ。

 それでも、この健常者工場に一抹の不安が拭えないのは、わたし自身がなんらかのスティグマに侵されているからなのか。

 今日も医学に支えられながら、死を諦め、生と向き合っている。そうこうしているうちに時は過ぎ去り、卒業して、就職する。もしかしたら子を産む。家を建てる。そして死ぬ。

 鬱屈とした気分ながらも、明快に示されたレールは、やけに光を放っている。

 少しばかり残された自由を、あとは楽しむだけなんだと、自身に言い聞かせている。

 ああ、本当に新学期が憂鬱だ。

 逃げ続けてきた専攻科目と向き合う日がやってきた。

 哲学は一体、わたしに何をもたらしてくれるのだろうか。(1030字)

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