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ホニャララLIVE #031 KiNG​(アーティスト)

この時代にアートは何をもたらすのだろうか

アートの価値を生み出しているもののひとつには、文脈というものがあると思います。ある作品を評価をするときに、それは脈々たる過去の芸術が築いてきた文脈の上で、成り立っているということです。アウトサイダーアートという言葉の「アウトサイド」が意味する外側とはつまり、この文脈の外側だとも言うことができます。

ただ、今日的な視点で考えたときに、アートの価値というのはもっと多様なのではないかという気がしています。「今日的な視点」というのは、複雑化した現代社会と現代人のライフスタイルを踏まえた視点とでも言いましょう。さらに2020年、人類は過去に記憶のない経験をしました。世界が同時に移動の自由を失うという経験です。

そんな時代にアーティストは何を想い、何を発信するのか。この時代にアートの役割とは一体なんなのか、そんな想いを抱きつつ、アーティストであるKiNGさんにお話を伺いました。お話を伺うにはこれ以上ないタイミングだったように思います。

エッジな表現としてのアート

この時はKiNGさんはAce Hotel Kyotoにてエキシビションの真っ最中でした。『ホニャララLIVE』では初となる展示作品の前からのリアルタイム配信というユニークな企画になりました。

これは僕の勝手な解釈です。KiNGさんはエッジの上にいるようなスタンスのアーティストだと感じています。西洋文化と東洋文化のエッジ、文化と商業のエッジ、論理と感覚のエッジ…。エッジは境界です。境界は極めて曖昧なグラデーションを伴っている領域ともいえますし、逆に紙の断面のようにシャープな場所とも言えます。KiNGさんのお話を伺う限り、そのどちらのエッジにも立っているような方でした。あちらとこちらを行き来しているようでもあり、既存の領域を破壊し、自身の活動を「アート」として定義するようでもあります。

前述したアートの文脈には「感覚」はあまり通用しません。ロジックが重要です。感覚という曖昧なものは経済成長の大きなうねりの中で忘れ去られてしまったのではないかと思うほどに、アートは言語化可能は表現になっているように感じていました。

ところが、この日のおしゃべりは「感覚」と「ロジック」を行き来するように自由に往来しながら進みます。KiNGさんの素晴らしい能力の一つはもしかすると、極めて感覚的、あるいは身体的な表現をしていながらも、それを高度に言語化できるところにあるのかもしれません。

発想の飛躍

アート作品に感動を覚えるときに、背景に作家の「発想の飛躍」を感じることがあります。作品と対峙をしたときに、その作品の生まれた経緯や作家の思考のプロセスを想像することがあります。それは「理解したい」という欲望なのかもしれませんし、自分なりの対話の方法なのかもしれません。

ところがまれにこの想像の旅の途中で迷子になることがあります。作家の発想、思考に追いつかないのです。大きなジャンプをして、こちらを置いていくような感覚にも似ているのですが、それは理解ができないと言うことではなく、理解を超えた感覚を与えてくることがあります。それを感動と呼ぶのかもしれません。

KiNGさんの作品にはまさに、そういったジャンプを感じます。初めて対峙するにも関わらず、昔から知っていたかのような錯覚。あるいは時代や民族を超えていま、そこにあるかのような佇まい、あげればキリがありませんが、僕には心地よい混乱を感じさせてくれる作品だと思っています。

KiNGさんの制作プロセス

おそらくこれはKiNGさんの制作のプロセスが影響していそうです。このあたりは「ホニャララLIVE」の中で惜しみなく話して(言語化して)くれています。

ホニャララLIVEはここから「ごきげん」と言う音葉が頻発するようになります。「ごきげん」は風の時代を生きるためのキーワードなのかもしれません。結構真面目な話(笑)。

観るだけで元気になるKiNGさんの回はこちら。

2020年11月21日 

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