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遊ばないという選択肢

時間課金型遊戯施設

2000年ごろから室内の遊戯施設というものがたくさん現れるようになってきました。入場料を払い、商業施設の2〜3テナント分はあろうかという敷地内にあるダイナミックな遊具で遊べるというもので、入場料の他に、時間毎に課金されていくというのが主なシステムです。

公園でできることが限られていたり、安全性、清潔面を不安視する声があったり、そもそも遊ぶ場所がなかったりという親のニーズに支えられて、急激に増えた印象があります。

近年、コモディティ化した室内遊戯施設が、今度は一時期の公園のように「できないこと」が増えているような気配も感じていたのですが、それはまた別のお話とします。ちなみに、感染症の影響もありこの状況は2020年1年で一転したようにも感じています。

お金を払って遊ぶということ

そんな室内遊戯施設ですが、初めて聞いた時にはとてもとても驚いたのを覚えています。遊ぶのにお金が必要だということに対してです。これはつまり公園で遊ぶのにお金が必要だと言われているような錯覚でもありました。これは自分の幼少期の体験からなる主観と偏見だったのだろうと思いますが、同世代の人ならば、わかる方もいるのではないかと思います。

幼少期の経験に基づいてあえていうのであれば、「遊ぶ」というと、公園や河原、林の中で何かをすることを想起します。あるいは家の中や学童、学校でも構いません。反面例えば、遊園地に行ったり、美術館・博物館に行く感覚は「遊び」というよりももっと特別な時間だったような感覚があるのです。

つまり、「遊び」というのは子どもにとっては極めて日常的なことであり、子どもたちだけでも行えるもの。という認識がありました。遊園地などは非日常性が高揚感を生んでいるとも言えます。

今でこそ市民権を得た室内遊戯施設ですし、僕もお金を払うことに全く違和感はありません。しかも、有料ならではの良さはあげるとキリがない。しかし、お金のやりとりが発生することで感じる寂しいこともあります。その一つが「遊ばないという選択が無くなった」ということです。

遊ばないという選択が無くなった

お金を支払って入場し、そこで滞在する時間の分だけ課金がされますから、親の心理的には「対価を得たい」というものが働くと思います。その結果遊ばないという自由は無くなりました。ひとり静かに過ごす、ぼーっとするということは室内遊戯施設ではできませんが、遊びには本来、遊ばない自由もあったと思います。また、同じ理由から、家にある大好きなおもちゃで遊ぶことは、室内遊戯施設ではあまり推奨されません。仮に施設に所有しているおもちゃがあったとしても、「家でできるんだから他ので遊んだら?」となるのが親の心理です。「子どもにはいろんな経験をしてもらいたい」という親心とも言えます。

なんか気になる。という時間

仮に初めて訪れる施設だったとして、場に馴染むのに時間のかかる子どもいます。入場してすぐに存分に楽しめる子どももいれば、すみでじっと観察しながら、ちょっとずつ馴染む子どももいるでしょう。あるいは、ここにはいたいが遊びたいわけではないということもあるかもしれません。「遊び」とはそういった自由すらも包含しているものだと思います。願わくば、それを一緒に見守れるような大人になりたいなと思う日々です。

もしかしたら遊びほど自由なものってないのではないかとすら思います。ならば大人にも遊びの時間がやっぱり必要なんじゃないかという発想にもなります。余白や空白のことを「アソビ / アソビがある」と呼ぶことがありますが、遊ばない時間というのは、人生における「アソビ」なのかもしれません。

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