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存在しない日記 2021.3.31

これは架空の人物による、架空の出来事の日記である。空想の日記。妄想とも言う。つまりこれは存在しない日記。

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2021年3月31日

今朝は早くに目が覚めてしまった。支度をするにしても早すぎるので、しばらく布団の中でスマホをいじってやり過ごした。目が覚めると同時にスマホに目をやる生活は今日が特別というわけではない。ここ数年の日課のようになっている。

これと言った目的があってスマホをいじるわけでもなく、ニュースをあちこち散見する。記事の文章を全て読むということはほとんどない。父は毎朝、必ずテレビのニュースをつけていたが、あの感覚に近いのだろうか。そういえば父も全くテレビに目をやっている様子はなかった。

一人っ子だったせいもあり、子どもの頃はとにかくテレビをつけていた。一人っ子がテレビをつけるという言い方はいささかおかしいか。私の場合には小学校から家に帰っても共働きの両親はまだ家にいないので、しばらくの間は私一人だった。その間、テレビは外の世界と自分との接点のような役割を果たしてくれていた。外の世界には人がたくさんいて、部屋の中には私一人だった。だからつけるテレビは人が出てこちらに話しかけているものと決まっていた。アニメやスポーツではダメだったのだ。

当時のテレビは私にとっては「窓」に等しい存在だったのかもしれない。

朝、起きるとまず窓を開けて空気を入れ替える人が多いのだろうと想像している。そんなものは想像だけで実際にはいないのかもしれないが。

空気を入れ替えるというのは、閉じられた部屋と、外の世界を繋げるようなもの。それと同じように、小学校から帰るとまずテレビをつける。テレビに映るものは外の世界であり、テレビは部屋に一人だけの私に、自分以外の誰かの存在を与えてくれた。

そのテレビ=窓が今はスマホに起き変わったということなのだろう。だからテレビをつける必要があまりなくなったのだ。

窓を開けることで繋がる外の世界は、そこから見える範囲に限られる。テレビならそれが6〜8個くらいのチャンネルに広がった。それが今度はスマホになったというわけだ。スマホを用いて接続する世界は、「どこへでも」と言っていいくらいに拡がっている。

どうも私にとってはスマホを眺めることと、先日からハマっているインターネット上のライブカメラの映像を眺めることは、近い行為なのかもしれない。四角い窓をどこにでも開けて、そこから外界を眺めるようなもの。

ところで、早く目が覚めてみていたネットニュースの中で、原宿の「龍の子」の記事を見つけた。あれは原宿には数少ない本格的な味を出す店だ。無性に腹が減って布団から出ることにした。

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