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遊びとは有機的な活動である

子どものたちの集団での遊びを観察していると、始まりと終わりとで全く別の遊びになっているということあは少なくありません。

コロコロ変わる遊び

数名の4〜6歳くらいの子どもの集団がいるとして、ブロックで何かを作ることから始まった遊びが、次第にブロックを何かに見立てたごっこ遊びに移り変わり、そのごっこ遊びから何かを競うようになり、終いにはブロックは使わずに遊んでいるというようなことです。

これは大人の場合には起きにくい出来事です。ゴルフに行けばゴルフをしますし、仕事上での会議を思い起こしてみると、あらかじめ時間と議題が決まっていて、目的のために集まった機能集団という感じが強いです。それとは反するようにインスピレーションを生むための集まりも多々生まれています。古くはサークルトークといったワークショップの原型もそうでしょうし、ビジネスにおいてはブレインストーミングや、近年よく耳にするアイデアそんなどもそれに近いものだと思います。

遊びとは有機的で、遊ぶことそのものが目的となっているということが表れています。大人は子どもに比べればはるかに合理的な時間を過ごしています。

心のままに動く

漢文研究の第一人者である、故白川静氏は「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。」と著書『文字逍遥』の中で述べています。遊びとは神=動かざるものが心の赴くまま(僕の表現は俗人的で品がない🙏)に動くことを意味し、それが転じて人の遊びを意味するようになっています。現代における遊びの意味は非常に多義的で、スポーツや娯楽、酒を嗜むことなども遊びという言葉で表現されます。

何とも俗人的な表現で恐縮ではあるものの、神が心のままに動くように、子どもたちの様子をみていると、まさしく心のままに動いているのが手に取るように分かります。それこそが遊びが他の目的を持たない一番の理由かも知れない。

そして有機的な活動は学びの機会に富んでいる。知的にも身体的にも多くの学びがあるのが遊びです。一つのことを学ぶのであれば、一つのことに集中をする場合が多い。ピアノを覚えるためにギターもバイオリンもやる人はそう多くはないだろうけれど、遊びであればその全てに触れる可能性は十分にあります。短距離走の選手であれば、合理的に短距離を早く走る筋力を得るためのトレーニングをするが、野山を駆け回る遊びならば多様な動作が出現する。

遊びは有機的な活動だからこそ、多様な体験につながるのとともに、必ず「楽しい」という感情が突き動かすものだから、身になりやすいのだろうと思います。有機的というのは、ある目的の達成に対しては合理的なアプローチの真逆ですから無駄が多く時間のかかるものです。しかし、この一見無駄な時間の中にこそ人生を支えるであろう、大切な体験がたくさん含まれているのだと思います。

心も体も

だからこそ、子どもたちにはたくさん遊んでもらいたいと願います。合理的なトレーニングでは養えないものがあります。能動的に遊ぶことでしか得られない、親であっても"与える"ことの出来ない経験というものもたくさんあるのだと思います。

心と体はコインの表裏のようにつながっています。頭を鍛えるためならば、勉強ばかりすれば良いというものではありません。体を動かすことで脳はたくさんの刺激を得ますから、それは頭を鍛えることにもつながるわけです。

大人の場合には、いつもと違う道を歩いて帰ったり、ネットではなく書店に本を買いに行ったり、車で通う道を自転車で通ってみたり、こういったことが有機的な活動につながっているように思います。一見するとどれも無駄なこと。でもその無駄が人生を支えるわけですから。

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