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楽しいのがいちばん!

2020年の4月頃から、子どもと遊ぶ様子を毎日Instagramでアップする様になりました。

当初はほんとに毎日やっていました。たくさんの子どもたちが家で過ごし、親と子が一日中一緒にいるなかで、「早くやれと」周りからけしかけられて始めたものですが、どこかの誰かが面白がってくれたら嬉しいなぁくらいの気持ちはありました。

ただ、僕のinstagramなんて元々自分のためのメモアカウントのようなものですから、フォローしてくださる方がたくさんいらっしゃるわけでもありません。そんなこともあって、ある意味「好き勝手」やっていました。

遊びとは

「遊び」という言葉は良い意味でも悪い意味でも使われます。子どもの成長における「遊び」の役割に理解が深まっていますから、30年前に比べれば遊ぶことは重要視されていると思います。同時に「遊び人」というとあまり良いイメージがないように、未だ「遊ぶこと=消費活動」というニュアンスも残っているのも事実です。

ただ、どちらにせよ遊びはその当人にとっては「楽しい!」というものであることは事実変わらないものだと思います。また、それは自主的なものでなくてはならない。人に言われてやる時点で、この楽しさは一気に色褪せてしまいます。

だから僕がやっている遊びは、おそらくはとってもくだらないものだと思います。でもこのくだらなさのおかげで、親子で大笑いしながら束の間の楽しい時間を過ごせているのも事実です。

遊びの目的は遊びそのものにある

遊びには目的はありません。強いていうのであれば、遊ぶことそのものが目的です。「頭が良くなる」「創造性が養われる」「社会性が身に付く」ということは結果としてはあり得るものですが、「頭を良くするために遊ぶ」というスタンスを僕は取りたくはないと思っています。

何かを得るために遊び始めた時点で、そこにはたくさんのバイアスがかかってしまいます。目的を達成するためには正しく遊ばなくてはならない。結果がなくてはならない。など。しかし、遊びは遊びそのものが目的だとすれば、目的の達成などありません。始めた遊びが途中で変わってしまっても一向に構わないんです。

遊びは変化しつながっていくもの

子どもたちと遊んでいて楽しくなってくると、当初始めた遊びとは全く別のものになっているということは少なくありません。ブロックで遊び始めたのに、途中からブロックが食材になってお料理ごっこになったり、そこからさらにお店屋さんになったり。遊びはジャズのセッションのように形を決めずにどんどんと変わっていって良いものだと思います。

同時に言えるのは「やめる」ことも自由だということ。やりたくなかったらやらなくてもいいんです。大人がやるべきことは強制することではなく、「やりたい」と思える環境を作ることなのかもしれません。

難しいのは大人が必ずしも楽しいとは限らないということ。僕自身も経験があるのが、遊びの"無限"地獄です。毎朝、起きると同時に「リカちゃん」で遊ぼうと言われると大人は飽きてしまいます。「付き合っている」という感じが出てしまう。ただ子どもは好きなことを徹底的にやりたいのでここに心理的なギャップが生まれてしまうのでしょう。

好きなことをずっとやっていたい子どもたちと遊ぶことに関しては、以前受けた取材で個人的な考えはお話ししたことがあります。

とにかく楽しければなんでもいい!

遊びだから楽しければなんでもいいんです。ちょっとくらいふざけてもいいと思います。ベッドの上でゴロゴロしていたら焼肉をひっくり返すイメージが頭の中に広がって、「焼肉ごっこ」が生まれました。焼肉になり切ることってあんまりないでしょう?

彫刻作品があったら真似してみるのはどうでしょう?変なポーズに思わず笑いが溢れます。

部屋の中で運動したい時にはパパを登れば良い。落ちそうになったらきっと支えてくれるはずです。最後はぎゅっと。

あげればキリがありません。一見ふざけているようなこれらの遊びは、その通りふざけているんです。でもそれが遊びの良いところではないでしょうか?これらの遊びも分析をすれば何らかの効果は挙げることができると思います。

でもそれはここでは野暮な話かもしれませんね。子どもはもちろん、僕自身も遊びを楽しめる余裕を持ちたいなと改めて思います。

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