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前世ぶりにごきげんよう

たいへんお久しゅうございます。

娘がまだ小さかった頃の話。1歳半くらいだったかと思います。近くの百貨店に行ってエレベーターに乗ると、5〜6人のご家族が下のフロアから乗って来られました。僕はその時娘を抱っこ紐で抱えていたのですが、前向きに抱えるタイプの抱っこ紐だったから、顔は正面を向いていてよく見えました。今とは異なりマスクもしていません。

先に乗っていたご家族の中には、かなり高齢に見受けられる、でもしっかりとしたお爺さんがいらっしゃったのですが、身なりも綺麗になさっていて杖をついて自分で歩いていらした。そのお爺さんは娘と目が合うなり、にっこりと微笑んで娘に向かって「大変お久しゅうございます」とおっしゃいました。

周りにいたご家族はそれを聞いて「やだおじいちゃんたら」みたいな感じで笑っていたから、お爺さんなりのジョークだったのかもしれません。でも、もしかすると過去に人間として生きていたとこかの時代で娘と会っていたんじゃないか?しかもお爺さんは娘を慕う近しい人間だったのではないか?と思わせる素敵な時間だったことは確かです。前世があるとしたら、娘はその時代においては比較的、位の高い人間で、お爺さんはそこに仕えるような関係だったのかもしれません。そう思わせるお爺さんの態度でした。

さて、娘は現在5歳ですが、これまでのところ前世の記憶を覚えているというようなエピソードは出てきません。僕自身も現世以外の記憶はありませんし、前世を感じさせるような体験もありません。

でも、お爺さんがちょっとしたジョークで「大変お久しゅうございます」と言ったと考えるよりも、娘とお爺さんは前世で会っていたのかも知れないと考える方が、人生が豊かになるような気が、僕はしています。

想像するということ

現代は想像力を働かせずとも生きていける時代だと思います。むしろ鈍いくらいの方が生きやすいかもしれません。自分の目の届かないところで起きていること、自分ではない誰かの考えや感情を想像すること、未来の行く末を憂うようなことをすると、あまりにも息苦しく、辛い現実を想像しかねないとも思います。想像することは知らなくても良いことを知ってしまう可能性がある。だから想像力を手放しているのかもしれません。また、想像する前に検索することができるのも現代の特徴です。故に使わない機能になってしまい感覚が鈍っているとも言えます。

ですが、想像することは本来人間の持つ素晴らしい力なんじゃないかと思います。それは他者を思いやることでもあり、他者を理解しようとすることでもあるのでしょう。そして、今ここにはいない、誰かに思いを馳せることでもあります。想像することは見立てることに近いかもしれません。見立てることは遊びの基本。子どもの遊びの多くは見立てることによるところが大きいです。

だからたくさん想像したいと思います。二元論的に合否、正解不正解で全てを解決せずに想像し推測し、誰かと話をすることを大切にしていきたい。子どもたちに何かを問われれば、もちろん正しいことを伝えていきたいです。しかし、正しさは片側からの景色でしかないことも多々あります。そんな時は一緒に考えてみたいと思います。

大人が伝えられること

2020年に学習指導要領が改定されています。そこには「主体的・対話的で深い学びの実現」という言葉が出てきます。詳しくはまた今度。ですがこれは教育とは、正しい知識を得ることを目指すのではなく、「学び方を学ぶ」ということに主眼をおこうという考え方です。大人の役割はこれに近いのかもしれません。所詮僕の知っている知識などたかが知れています。それを伝えることではなく、想像することの面白さを伝えていければ、多様性もダイバーシティも理解できるのかも知れません。

対象は人でもモノでもコトでも構わないから想像力が豊かな大人が増えると、なんか未来は明るい気がする。

余談ですが、輪廻転生をめぐる考察は竹倉史人さんの著書、を読んでください。これもきっと想像力(?)から始まる思考の旅の一つです。

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