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ちゃんと遊ぶ?

遊びの価値

この20年くらいで幼少期における「遊び」の重要性を認める動きは飛躍的に伸びていると実感します。現行の学習指導要領の中にも遊びという単語は使われるほどです。遊ぶことで子どもたちは成長するわけです。

遊ぶことが子どもの成長に寄与するのは、おそらくは遊びが複合的な行為の組み合わせであり、自発的な行動に支えられているからなのだろうと思います。

鬼ごっこを想像してみると、走る、跳ぶ、またぐなど複数の動作が現れるとともに、友人とのコミュニケーションも活発に生まれます。ルールや順番を守ると言った、秩序もそこにはあるわけで、これが遊びの持つ複合的な側面。

自発的というのはここでも何度か触れていますが、誰かに言われてやるのは遊びの醍醐味を失っています。「やりたい!」からやるのが遊びであり、その楽しいという感情が得たものをその子どもの力にするのです。

きちんとしなきゃと思う親心

ただ、遊びの価値が向上した結果ネガティブな動きもゼロではありません。一つには義務教育に「遊び」が含まれることで、それは自主的な行いではなく、義務になってるのではないか?ということ。これは半分屁理屈でもあるんですけど、遊びには、遊ばないという選択の自由
が内包されているものです。それが学校教育の中でどこまで守られているのかは気になるところ。

もう一つには、親のマインド。遊びが子どもの成長に良い影響を与えるとなると、途端に「ちゃんとあそんで!」と思う親もいらっしゃいます。でも多分、「ちゃんと遊ぶ」という思想の中には遊びを義務化してしまう、ベクトルが働いているように思います。

遊びっておそらく世界で最もちゃんとしていなくて良い時間のはずなんです。しかし、脳への影響、言語の獲得、手先の器用さ、身体のコントロールの上達… などという効果のようなものを先に見据えてしまうと、「ちゃんと遊んで」というふうになってしまう。

学習指導要領が授業に「遊び」を取り入れた背景には、楽しく経験することで、生きる力を獲得してもらいたいという狙いがありますが、「ちゃんと遊んで」という願いは、子のためとはいえ逆の効果を生んでしまうのではないかと心配になります。

余計なことを

昭和から続く家庭団欒を描くアニメ(サザエさんとかドラえもんとかまる子ちゃんとか)の中では、子どもは頻繁に叱られています。
余計なことばっかりして、遊んでばっかりいて、という感じで。

遊びの価値を認めるということは、この余計なことであることを認めることでもあると思います。

その子らしい一生を送るための礎になるのが幼少期の体験だとすれば、余計なことを余計なままに、認めることがとっても大切なことのように思います。

別にいつもニコニコして見守ろうってことでもないですよ。急いでるのに余計なことしてたら言えばいいんだと思います。「余計なことばっかりしてないで!」と。それでもやりたくなるのが遊びです。余計なことって楽しいんですよねー。

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