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「変なこと」は変ではない 遊びにおける重要なこと

子どもって変なことばかりしています。裸で家の中を走り回る。テレビやタブレットを見ながら逆さまになっている。サインペンで自分の顔に落書きしたり、尻ふりダンスやヘンな顔など。あげればきりがない数々の行い。割とどこの家庭でも見られる光景のように思います。

遊びにとって大切な2つのこと

僕が遊びを考える上で、気をつけていることはいくつかありますがそのうちでも大きいのが2つ。一つは徹底して手軽であること。2つ目がこの変なことです。

手軽であることは再現性や、「やってみよう」というモチベーションに関わってきます。どこの家庭にもあるものを使い、大した準備も必要なく、特別な技術も求めないにもかかわらず大いに楽しい遊びを目指しています。誰でもやれると言うことですね。準備が大変なものは僕自身も面倒なんです。

子どものいる家庭は概ねいつも忙しいものだと思います(そんなことない?)。食事、着替え、お風呂、兄弟がいればケンカと毎日小さなイベントだらけです。その中に準備の大変な遊びを入れることは困難ですが、遊びは同時に子どもたちに必要なことでもあり、しかも親子(家庭)がほんの少しだけ幸せになる可能性すら秘めていると思います。

ですから徹底的に手軽であることはとても大切。ポーズを決めたパパをよじ登るだけでも遊びは発生します。

もう一つの観点である「変なこと」ですが、結論からいうと子どもたちの行いは大して「変なこと」でもないと思っています。変なことというのは、変ではないこと(=常識的な行い)が前提にあります。そこから逸脱すると"変なこと"となるわけです。常識とはルールに近いものがあるかもしれません。野球の試合中、外野手としてプレイしていたとします。相手打者が打った打球が自分のところへ飛んできます。捕球するのではなく意図的にヘディングをしようものなら、それはおそらく"変なプレイ"となるわけですが、子どものたちの世界はルールが柔軟でかつ曖昧です。

なんで?どうして?

子どもたちと会話をしているとよく「なんで?」「どうして?」と質問をされます。幼少期の特徴的な行動でもありますが、知らない世界に対する興味・関心がストレートに表れている結果です。子どもたちは世界のことを大人と比べるとまだまだ知りません。ゆえに前提となるルールが曖昧です。

子どもたちが「変なことばかりする」のは大人の常識から見た時の見解であり、子どもたちにとっては極めて日常的で、自分からみて普通のことをしているのだろうと思います。僕が遊びを考える上で気をつけている「変なこと」というのはつまり、変なことを考えようという意識ではなく、自分の狭い見識の中に収めないようにしているという方が適切かもしれません。発想が子どもっぽいとも言えますけど…。

言い換えると、遊びというものは枠組みを与えてあげることで生まれるものだとも考えられます。パパをよじ登っているだけですが、「パパクライミング」という枠組みを与えることによって「難易度を調整する」という遊びの幅が生まれます。ポーズを変えれば難しくなるわけです。布団の上でゴロゴロと子どもを転がす遊びも、それだけでも十分に楽しいですが、「焼肉ごっこ」という枠組みを与えることで、お肉が焦げたり、ビールを飲んだり、前後の遊びが生まれてきます。サンチュ(シーツ)で包んでも楽しいかも。ごっこ遊びとじゃれつき遊びが合わさったようなものです。

これは僕の想像ですが、手頃な大きさのものを積み上げる遊びは、幼児期の極めて原始的な行動の一つではないかと思います。チンパンジーもするそうです。ただ積むだけの遊びに対して、神様からのギフト(恩物)であるという枠組みを与えたのは幼児教育の祖であるフリードリヒ・フレーベルです。神のギフトは現代の積み木として定着しています。

大人の常識の少し外側にある、子どもの変な行為を一緒に楽しめるくらいの心の余白(遊び)を持って過ごしたいものです。焼肉ごっこも神の啓示として歴史に残ったりしないかな?

たまには子どもの視点に立って想像してみると、大人の言動と言うのはいささか理不尽な場合があるかもしれません。手軽な変なことは遊びの視点で見ればとても楽しいものです。

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