描くという行為を通じて瞑想状態に入る
先に言い訳をすると瞑想という言葉はちょっと便利に使っています。この先に書いてあることが瞑想状態なのかというと、必ずしもそうではないとも思います。
日常の中の瞑想
元々の思いつきは、例えば畑仕事のような身体的活動を伴う反復行為を行なっている間というのが、瞑想状態に近いものであるという話を聞いたことから始まります。
確かに畑仕事というのは、土に触れるということや、周囲も豊かな自然に囲まれている(ことが多い)ということ、汗をかくこと、仕事の結果を自分で頂く(食べる)ことができるということなど、あらゆる点で心身の健康に良さそうです。
ただ、都会生活者にとって畑仕事は手軽ではありません。ベランダ菜園もできるけど、足を土につけることも叶わない。
ならば、というわけでもないですが思いついたのが、描くという行為を通じて瞑想に入れるか?というものでした。禅においては円は悟りや、宇宙全体を示すものとして書画(円相)も多数残されています。※現在も描かれています。
実験① 円を描く
そんなわけで試しにやってみました。今回は墨汁にパール系の塗料を混ぜたものを、刷毛で合板のパネルに描いています。
書画の場合は和紙に墨でしょうけれど、これは何度も筆を重ねることはできません。紙が破れてしまう。一筆書きを何十枚と繰り返すことはできるでしょうけれど、僕がここで試したかったのは表現のメソッドを取りれたものでもありました。
インプットとアウトプットの循環
メソッドという言い方は正しくないかもしれませんが、表現活動はインプットとアウトプットの循環に支えられていると考えています。何らかの手法を用いて「知る」ことと「出す」ことです。
円を描く場合のアウトプットはまさに刷毛で円を描くことそのものです。インプットは何かというと、自分が描いた円を観察すること。この観察によって次に描く円はより端正な円に近づいていくというわけです。
(今気づいたけど、表現においてはインプットよりもアウトプットが先にたってもいいのかもしれません。呼吸も吸うより吐くが大切)
ですので、幾重にも重ね描きができることを想定しました。パネルは正方形のものにしました。長方形のものが一般的ですが短長の差が辺にないことは望ましかった。
そんなわけで約1時間ほどやってみました。冒頭の様子がこちら。延々とこんな感じ。
感想
備忘録も含めて気づいたことを列記します。
・やることは単純、正円を目指して描くだけですが、一筆入れるごとに円は微細に変化していきます。その変化が次の行為を誘発するのですが、これが繰り返されるので「終わり」は消滅します。
・やることが描くだけ。使える道具は身体と刷毛だけ。そのうちに呼吸が気になるようになってきます。息を吐きながら線を引いた方が良いような気がします。ちなみに刷毛は良くなかったかも(人によるかも)。もう少し握りやすい筆が良かったかもしれない。
・円の形に気を取られると、画面に対しての位置がずれてきます。位置を正すと形が歪んだりします。理想は全体を周辺視野で眺めるような緩んだ状態なのかもしれない。
・一筆加えることは形の修正になります。修正といってもごく僅かな形の修正ですが、その修正をするにあたりは大きな決断を迫られる時があります。この大きなというのは、うまくいっている部分も捨てるような覚悟です。ミクロの葛藤のようで面白かった。
・描く時間は主観優位です。なので客観的になるために「みる」時間を設ける必要があります。俯瞰的に物事を観察するトレーニングにも良いかも。
・どこで終わるか、というのは何かを試されているようでした(笑)。これで納得していいのか?とか、終わりを決めるのは自分だぞ?とかそんな問いを投げかけられているようでした。誰から?
こんな感じ。そして結構疲れます(笑)。おかげでよく眠れる。
これが瞑想かと言われればわかりませんが、心身ともに何らかの影響があるのは確かなんじゃないかと思います。
この発展としては、今度は円の周りを白色で塗っていって、外側から円を整えるということもできそうです。その場合は墨汁が水に溶けてしまうから、耐水性の塗料がいいですね。墨の香は良いのだけど。
次は複数人でやってみたいですね。
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