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追いかけても追いかけても

または THE SECOND前夜にTHE YELLOW MONKEYのおたくが送る「バラ色の日々」にまつわるあれやこれや。

私は特段お笑いファンというわけではないのだが、twitterでフォローしているひとにお笑いファンの方が少なからずいて、だからこそ大きな賞レースのときにはその話題でTLがにぎわうのだが、明日(もう今日だ)行われるTHE SECONDという大会に向けて作成されている事前VTRに、THE YELLOW MONKEYの「バラ色の日々」が使われているというツイートを見かけていそいそと見てみた。

そしたら、使われているどころじゃなかったのである。
むしろ、THE SECONDのテーマソングはバラ色なんか?と思うほど、どのVTRにも繰り返し冒頭のフレーズが流れるのである(実際、プロデューサーの方のnoteによれば、テーマソングとして最初に決まったとあった)。
でもって、冒頭の「追いかけても追いかけても 逃げていく月のように 指の間をすり抜けるバラ色の日々よ」という歌詞が、THE SECONDというM-1での栄冠を勝ち取ることができなかった芸人たちの「ハレの日」へのストーリーにすごくハマっているのである。

「バラ色の日々」のリリースは1999年12月、今から約23年前。THE YELLOW MONKEYの19枚目のシングルとしてリリースされた。その前年、1998年から1999年にかけて、THE YELLOW MONKEYは実に113本という長大で過酷なツアーを回っており、そのツアー終了後9か月ぶりのリリース作品でもあった。

この頃のTHE YELLOW MONKEYについて一言で語るのは難しいが、彼らが(とくにフロントマンである吉井和哉が)そのツアーで疲弊していたことは多くの媒体で語られており、彼自身この時期を黒い海を渡っているようだったと言っている。そしてこの「バラ色の日々」のリリースに際しては、チャレンジシリーズと題され、今まで導入していなかった外部プロデューサーを入れた作品の第一弾でもあったのだった。

私は過去に自分のブログで、「この外部プロデューサーを入れたってのがね、もうその時点でバンド的には黄信号というか『音楽性』『新しい風』とか言い出したら大抵そこはもう地獄の三丁目」「だからリリース当初から圧倒的にファンに支持されたとかそういう楽曲では決してなかった」と書いている。つまるところ、リリースされた当初から名曲!すげえ!これが俺たちのアンセムだ!みたいな、諸手を挙げて大絶賛!みたいな生まれではなかった、この曲は。

THE YELLOW MONKEYはその後まもなく活動を休止し、さらに解散することとなるのだが、実は解散後、ソロとして活動していた吉井和哉が、はじめて客前で歌ったTHE YELLOW MONKEYの楽曲が、この「バラ色の日々」だった。

そのときの客席の阿鼻叫喚のさまは詳しくは書かないが、その後も吉井和哉はソロのライヴで幾度となくこの「バラ色の日々」を歌っている。そして、この楽曲を選んだことについて、こう言っている。

単純に、バラ色の日々をもう一度追いかけてみようかなって思ったんですよね。

その後、2013年に行われたファン投票で、この「バラ色の日々」は1位を獲得し、2016年にバンドが再集結して以後も、この楽曲はすべてのライヴで演奏されている。それだけでなく、2016年再集結以後のファンクラブの名称は、この楽曲の最後の歌詞から「BELIEVER」と名付けられたのだから、この楽曲が生まれ落ちてから今までの道のりは文字通り波乱万丈といっていいかもしれない。吉井和哉はかつてこの曲について「おれたちと君たちのテーマソングになったらいい」と言ったことがあるが、長い年月を経てようやくそれが実現した感がある。

つまるところ、「バラ色の日々」自体も、セカンドチャンスによって甦った楽曲であるとも言えるわけだ。

歌詞を読んでもわかるように、この曲はバラ色の日々のすばらしさを歌ったものではなく、むしろ「届かなさ」と、「それでも」の決意を歌った曲であるわけだが、こうしてみると楽曲がたどった運命もふくめて、THE SECONDという舞台にはよく似合っているなあとおもう。


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