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夜明けは天使とうららかに 1-1

夜明けは天使とうららかに

あいいろのうさぎ

「ただいま」

 玄関のドアを開けると、少し間を置いてお母さんがリビングから出てきた。

「おかえりなさい」

 と穏やかに微笑みながら言ってくれる。僕はそれを見て『良かった、今日は元気なんだ』と安心した。

「確か今日はお誕生日会をやったのよね。楽しかった?」

 僕のクラスでは毎月、誕生月の子たちのお祝いをする。僕は二月が誕生日だから、クラスメイト全員からのメッセージを貰ったり、氷鬼をして遊んだりした。

「うん、楽しかった」

 僕はお母さんに嘘を吐いた。

「宿題やってくるね」

「先にちゃんと手洗いうがいするのよ」

「うん」

 僕は言われた通りに洗面所に向かって、手洗いとうがいをした後、二階の自分の部屋に入ってベッドにダイブした。

 僕は鬼ごっこが好きじゃない。鬼ごっこが好きなのは同じ誕生月の江藤君で、氷鬼をするのも江藤君の一声で決まった。

 あまりクラスメイトと仲が良くない僕に贈られた一人一人のメッセージは、どれも「誕生日おめでとう。良い一年になるといいね」みたいな、『とりあえず書きました』という文字が浮かび上がってきそうな文言だった。それが示し合わせたかのようにズラッと並んでいるのを見ると、寂しくなってしまう。江藤君へのメッセージがたまたま見えてしまって、そこにびっしりと書かれている文字が、余計に僕の気持ちを落ち込ませた。

 でも、そんなことお母さんには言えない。

 きっとお母さんは心配する。心配し過ぎてしまう。お父さんが言っていた。お母さんはとても優しい人なんだって。だからすぐに心を痛めてしまうんだって。一年生の時になかなか友達ができないんだ、とお母さんに言ったら僕より落ち込んでしまって、数日間は家事もままならない様子だった。それから僕は決心した。お母さんに弱いところは見せないって。

 でも、言わないでいると僕の中の寂しさがどんどん広がってきて、僕を包み込もうとする。だから早くお父さんに帰ってきて欲しかった。お父さんに早く話したかった。

 でも話せなかった。

 さっきまで元気そうだったお母さんは、急にエネルギーが切れてしまったみたいで、洗濯物を畳んだり夜ご飯を作ることができなくなってしまったらしい。宿題が終わって一階に降りて行ったらお母さんがどこか遠くを見つめるみたいにボーっとしていた。だから、疲れちゃったんだなって分かった。これもお父さんに教えてもらったことだけど、お母さんは心のエネルギーが少ない日があって、そういう日は普通のことをやるにも疲れてしまうらしい。お母さんは洗濯物を畳めなくなってしまったんだろう。

「お母さん、僕も洗濯物畳むよ」

 僕の言葉に、元気な時なら『ありがとう』と言ってくれるのだけど、今日は小さく頷くだけだった。

 洗濯物の山から一枚ずつ服をひっぺがして畳む。その間もお母さんは手に取ったシャツを何となく眺めていて、『これは相当疲れてるな。夜ご飯はお父さんが帰ってくるまで待たなきゃな』と僕は考えていた。

 洗濯物が畳み終わったから僕は自分の服を部屋に持って行った。その頃には「ごめんね、ちょっと横になるね」とギリギリ聞こえるくらいの小さな声を振り絞って、お母さんは寝室で寝転がっていた。

 僕はお父さんに『お母さんが元気ないみたいだから、夜ご飯買ってきて』と連絡して、お母さんと同じようにベッドに寝転がった。


 お父さんがお弁当の入った袋を提げて帰って来た頃には、お母さんも少しだけ元気になったらしくて、みんなで一緒にハンバーグを食べた。でもやっぱり『少しだけ』だったらしくて、お母さんが箸を運ぶ速度はいつもよりずっと遅かった。

「先にお風呂入ってくるね」

 とっくに食べ終わっていた僕がそう言うと、お父さんは「ありがとう」と微笑んで、お母さんの向かいの席から僕が座っていたお母さんの隣の席に移動した。背中を向けた僕の耳に「今日もよく頑張ったね。ありがとう」とお父さんの声が聞こえる。

 僕もお父さんに話を聞いてほしかったけど、今日は無理そうだなと思った。

 僕の耳にはお母さんがすすり泣く声も届いていたから。


 お母さんは普通の生活がままならないのが悔しくて、でも自分ではどうしようもないらしい。心の風邪はとても厄介なもので、一日や二日でどうにかなるものではなく、何年もの時間をかけて治していかないといけないんだ……と、これもお父さんが言っていた。心が弱いのとは違うんだよ、とこれも何回も言われた。

 でも、僕には正直、よく分からなくて、どうして洗濯物を畳むだけで寝込むほど疲れてしまうのか、理解できていない。でも、お母さんが辛そうなことは小学三年生の僕にだって見るだけで分かる。だから、今以上にお母さんが悲しい気持ちになったりするのは嫌だ。

 だからやっぱり、言えない。

 仕事から帰ってきたお父さんは、お母さんがやりきれなかった家事をこなして、お母さんの心のケアまでしている。僕はお母さんに元気でいてほしいし、なんて声をかけていいのか分からないから、やっぱりこの時間は大事だと思う。

 だから、いいんだ。

 心が弱いだけの僕には、時間を使わなくていい。

 ちょっと寂しくなっただけ。泣くほど辛くない。

 だから、大丈夫だ。




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