長編小説『エンドウォーカー・ワン』第10話
ベルハルトがこの街に越してきた時、イリアにとって彼はただの隣人だった。
この一帯は軍属の人間が多く、出会って数日と経たぬうちに彼らの父親たちは十年来の友人のように親しくなった。
それがきっかけになり、家族ぐるみでの付き合いが始まる。
「は、初めまして……ベルハルト・トロイヤードといいます」
半身を母親の影から覗かせて俯いていた赤毛の少年はイリアの目にはとても頼りなく思え、つまらなさそうな男の子というのが第一印象だった。
その印象は学校での事件で劇的に塗り替えられる。
雲一つなく、何処までも落ちていきそうな底深く青黒い空が見下ろす日のことだった。
「おい、そこの落ちこぼれ魔女」
いわゆるスクールカーストの上位層である男子生徒が何を聞きつけたのか、取り巻きを引き連れてイリアの席を囲んでいた。
「聞いたぞ? 魔法使いの家系に生まれながら殆ど魔法が使えないんだってな」
「……レニくん、突然何のこと?」
「大人たちが言ってたんだ。お前はトリトニア家の恥だってな」
「うそ」
「嘘なもんか。この耳で確かに聞いたぜ? あんな娘を生んで、あの家はもう長くはないってな。今までよくもでかい顔してくれたな」
レニがイリアの銀髪を掴もうとする。
「止めてよっ」
「抵抗するなよ、家名だけの貧乏人が!」
抗うイリアにいきり立つレニ。
彼としては自分に靡かない彼女が気に入らないだけだった。
それはまるで暴君の所業で、彼に逆らえばどうなるかをよく知っているクラスメイトたちは見て見ぬふりを続けていた。
「痛いよぉ!」
「止めてほしかったらこれから俺のことをなんでも聞くと約束しろ」
髪を掴まれて涙目になるイリア。
「……めろよ」
囁き声だけが支配する場で、それを破ろうとする少年が立ち上がる。
「止めろよ」
彼は次に明瞭とした声で叫ぶ。
捕食される側の弱々しい潤んだ瞳で、このクラスのトップをきつく見つめていた。
「ああ? ベルハルトさあ、人殺しの底辺が何イキってんの?」
「レニ、その手を放せ。彼女は……嫌がってるじゃないか。それに父は人殺しじゃない。誉ある軍人だ」
人を人と思わぬ鋭い眼光に立ち向かうベルハルト。
きっとその声は震え、握った手は緊張で滲んでいた。
「ああ、無能たちの受け皿になっている軍か。奴らはあれだろ、税金泥棒ってやつだ」
「そうですねレニさん。仰る通りで」
レニの取り巻きが彼にへつらう。
少年たちは薄ら笑いを浮かべ、イリアたちを見下していた。
「父様の……」
俯いていた銀の少女に薄紫の光が奔る。
最初は小さかったそれは瞬く間に大きくなり、彼女の周囲を、教室内を縦横無尽に駆け巡る。
「おとうさんの悪口を言うなあぁぁぁっ!」
刹那、イリアの叫びは一筋の閃光となり、顔を庇おうとしていたレニに襲い掛かる。
電撃が彼の身体を走り抜け、血液という血液が沸騰して口や鼻からどくどくと鮮血を噴き出し続ける。
だが、それはレニの身ではなく彼を庇ったベルハルトに起こっていた。
「お前っ……!?」
レニは何故あそこまで挑発していた自分をベルハルトが庇ったのか、思考が追い付かないでいた。
背中が灼け、背中が露出していたベルハルトは流れ出る血を拭うでもなく、リノリウムの床から両膝を離すと不意に腕を振りかぶり、へたり込んでいる少年の鼻頭を折った。
「ぐっ……何をするっ」
「この痛みと共に思い知れ。魔力抵抗を持たないお前じゃ、この程度では済まない」
苦痛と高揚感が支配するベルハルトは思い切り凄んでみせる。
「今度からは石を投げる相手を選ぶことだ。彼女は決して落ちこぼれじゃ……な……」
しかし彼の感情とは裏腹に、意識は次第に遠のいていき、眠るように再び床へ崩れ落ちた。
「どうしてあんな子を庇ったの」
ベルハルトが薄暗闇の中を彷徨っていると透き通った声が頭の中に響いた。
だが彼の意識は酷く朦朧としており、彼女が何を言っているのかを理解できてもそれに対する返答が浮かんでこない。
イリアが昂る感情で暴走しかけていたので咄嗟に庇った?
それだけではないはずだ。もっと何か……別の想いがあったような。彼の思考はひどく重たく、回転も緩やかで頭に血が巡ってこない。
「正義の味方になりたかったから」
彼はそれでも言葉を紡ぎ、昔憧れた者の存在を口にする。
強きをくじき、弱きを助ける。分かり易い善のヒーロー。
物心をついたばかりの幼子にはそれは刺激的で、小学生低学年の時までは本気で自らに過酷なトレーニングを課し、将来そうなれるように努力してきた。
同級生からは散々笑われてきた。
その方向性が変わってきたのは高学年になった最近のこと。
ようやくテレビの中のステレオタイプのヒーローなど存在せず、奉仕活動を通じて自分の中のやりきれない思いを昇華させていた。
目指したものはこの世に存在せずとも、自分がそうなり「善い人間」に近付く努力だけは止めない――それはベルハルトの執念のようなものだった。
「……それじゃ、わたしが悪役の魔女みたいじゃない」
少しずつ光を取り戻していた世界で少女の声が潤む。
ベルハルトは瞬きを一つ、二つ。
すると、視界に保健室の天井と口元をわなわなと歪ませるイリアの顔が目に飛び込んできた。
彼は今にも雨を落としそうな彼女をゆっくりと押し退けると「どう考えてもお前の堪え性のなさが原因だろ」と身を起こす。
どれくらい気を失っていたのだろうか。
ベルハルトが顔を赤く染め上げているイリアをよそに、室内の掛け時計を見やり針を確認する。
「40分か。午後の授業までギリギリだな」
「え、そんな怪我で出るの?」
イリアは罪悪感と後悔の念を後ろ側に引き、体操着姿のベルハルトに問うた。
「俺は魔法抵抗だけは強くて。あんな感情で暴発した魔法程度大したことはない」
「……ごめんなさい」
少女はあの時の光景を思い出したのか、白銀の線を前に垂らして深く頭を下げた。
精神や技術、知識不足……自らの鍛錬不足ゆえの過ち。
それを無かったことには出来ない。挑発を繰り返されたとはいえ、人を傷付けたは変わりない。
彼女はこれから待ち受けるであろう過酷な未来に怯え、小さなその身を震わせた。
いや。
その「未来」さえ訪れないのかもしれない。
物語やドラマで培った想像力豊かな彼女の頭には、地獄のような日々が次々に降り重なっていきじわりじわりと苦しみが増していく。
「そんな顔をするな。大丈夫だ、お前は俺を『止めた』んだからな」
しかし、今回の騒動で一番の被害者であるベルハルトは痛む右手でイリアの肩を軽く叩きながらそう言ってみせる。
「それって、どういう……?」
「俺とあいつが喧嘩になって大事になりかけていたところをお前が魔法で止めた。そういうシナリオだ」
「シナリオって、嘘をつくっていうの?」
「そうだ」
「よくない。それは、絶対によくないと思うよ」
イリアが目を見開き、年齢の割には冷静な少年をありったけの眼光で射貫こうとする。
嘘は人を不幸せにする。だから、常に誠実であれ――それが母親の教えだった。
「違うな。この世を渡り歩いていくには嘘は必要だ」
ベルハルトがどこかくすぐったそうに視線を逸らす。
幼い彼の世界はまだまだ狭かったが、そこでの経験がそう言わせていた。
言いたいことをそのまま口にすれば人間関係は形成できない。
鋭い刃物である「現実」を「嘘」という糖衣で包み込むこんでオブラートにすることが彼なりの処世術だった。
「……うそつき。うそつきのベルハルト」
意見が合わず、不機嫌そうなイリアが頬を膨らませながらベルハルトに抗議する。
「嘘付きでもいいさ。それで人を守れるなら」
それが二人のはじまりの物語。
しかし、幼い彼らの序章は今終わろうとしていた。
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