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個性が重視された時代から普通の時代へ(映画評論)

 映画の感想は人それぞれ、見る人によって大きく変わってくるものです。

 だから正解はなく、不正解もないのです。

 ただ、観ている自分自身の鏡なのではないかと思います。

 今回は個性を重視されて育てられた私にはとても刺さった映画でした。


 それなので、題に書き表された通り、個性を重視するゆとり教育を一身に受けて育った私の感想を書いてきたいと思います。


 個人的に印象に残ったシーンは、最後の戦いで佐藤になったファブルが人を殺せなくなったシーンでした。

 普通の人間は人を殺すことに強い嫌悪感を示します。

 しかしながら、生まれつき人殺しの天才であるファブルは物語序盤や過去の回想シーンなどで殺しの天才である描写が幾度も描かれていました。

 それを見てきたボスは、ファブルを殺しの天才であると確信しましたが、同時に、サヴァン症候群の発語ができず人とコミュニケーションをとることができない絵描きの話を例えに、殺しの天才であるファブルが不幸な存在であると感じます。


 天才であることや特別であることは多くの人が憧れるところなのかもしれませんが、その当事者や周囲の人たちは苦しんでしまうのが現実です。

 その苦しみや苦悩を受け入れてまで天才である必要があるのか?

 ファブルはその問いに、NOを突きつけましたように感じました。

 ファブルは佐藤になり普通の生活を送ります。

 その中で彼の殺しの才能は減衰していきますが、同時に彼は普通の人間としての生活を手に入れることができました。

 このことをハッピーエンドであると認識できるなら、ひょっとしたらあなたは特別な能力を持って生まれてきて、特別な才能があることに苦しんでいるのかもしれません。

 特別であることには、大きな代償が伴います。

 その代償を目の前にした時、多くの人がためらいを感じてしまいますし、現に私たち人間の9割は一般市民です。

 そう考えた時、本物の天才がその才を失ってゆく過程が美しく見えるのではないでしょうか?


 まあ、デジタルアートセンターなんて言う少し変わった人たちが集められている空間に身を置いている以上、自分も普通ではないことが明らかですが、そういう人から見ると、佐藤さんは普通になれてよかったね、と感じさせられます。


 どうでもいいのですが、私も本名が佐藤なので、佐藤を乱用しないでほしいなあ、という謎の気持ちが生まれたりしましたが、これは大した話ではないので蛇足として書き加えておきます。





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